モンキー的映画のススメ

モンキー的映画のススメ

主に新作映画について個人の感想、意見を述べた文才のない男の自己満ブログ

映画「あんのこと」感想ネタバレあり解説 実話ベースで生まれた重苦しい物語。

あんのこと

コロナ禍によって社会から以前以上に取り残されてしまった人は多いはず。

誰かと接していられたからこそギリギリでつなぎ留められていたわけで、それがなくなってしまった人たちがその後どうなっていったか、私たちは知ることなく、自分だけのことでいっぱいいっぱいだった。

今こそ誰かのために、誰かの事を思って動いても遅くはないのではないか。

せめて存在していたことだけでも心にとどめておくことはできないだろうか。

 

今回観賞する映画は、そんな社会から見放されてしまった女の子の物語。

新聞の片隅で報じられた記事から着想を得た物語だそうですが、一体どんなドラマが描かれているのでしょうか。

早速鑑賞してまいりました!!

 

 

 

作品情報

新型コロナウィルスによって日常が一変した2020年。そこで起きたある事件を題材に、「SRサイタマノラッパー」シリーズや、「AI崩壊」、「22年目の告白-私が殺人犯です-」など、自主映画からのし上がってきた入江悠監督と、カンヌ国際映画祭にも出品され、カメラドール特別表彰を受賞した「PLAN75」のスタッフの手によって映画化。

 

機能不全の家庭に育ちすさんだ生活を送る少女が、ある出会いをきっかけに生きる希望を見いだそうとする中、非情な現実に翻弄(ほんろう)される姿を、どん底から抜け出そうとする主人公が見た美しい情景と、それでもどうにもできない社会の歪みを容赦なく突きつける。

 

サマーフィルムにのって」以降、大小問わず様々な作品で輝きを放ち、カンヌ国際映画祭に出品された「ナミビアの砂漠」の公開が控える河合優実が、「少女は卒業しない」以来の主演作に挑戦。底辺から這い上がろうともがく少女を熱演した。

 

また、彼女を献身的にサポートする刑事役に、「銀魂」をはじめ福田雄一監督作に欠かせないバイプレーヤーでありながら、「宮本から君へ」や「さがす」などシリアスな演技でも評価の高い佐藤二朗、そして彼を取材するため近づく記者役を、「十三人の刺客」以降脇役での名演技が注目され、近年では「正欲」でも注目を浴びた稲垣吾郎が演じる。

 

自分の事ばかりで精一杯だったコロナ禍。

時代の変化の速さが加速する今、忘れてはならない物語が、ここに。

 

 

 

 

あらすじ

 

21歳の主人公・杏(河合優実)は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。

 

ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅(佐藤二朗)という変わった刑事と出会う。
大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。

 

週刊誌記者の桐野(稲垣吾郎)は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。

 

ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。

杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。

 

行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。

そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる──。(HPより抜粋)

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感想

冒頭からいきなり重く、何とか脱出できたけど、再び戻ってしまう。

その最たる理由はなんなんだろう。

誰かが悪いのか、彼女が悪いのか。それとも。

以下、ネタバレします。

 

 

 

 

 

 

 

いきなり詰んでる…

劇中で語られた内容によると、どうやら杏は幼少期から親に暴力を振るわれ、小学校の頃から学校に行かず、親の強制で売りをすることになり、16歳でクスリに手を出し、今に至るという。

 

母親は杏のことを「ママ」という。

なぜかというと、機能不全である祖母の面倒を彼女が見なくてはならないこと、そして家にお金を入れるのは彼女の担当だからだという。

本作で一番気味が悪かったのは、この「ママ」という呼び名。

 

ママである母親が娘に「ママ」という。

ものすごくややこしい呼称の中に、ものすごく悍ましさが漂う。

母親は夜の仕事でもしてるのだろうか、それとも男から金をもらっているのだろうか。

 

それなりに着飾った格好で朝方胃もたれでもしてそうな表情で帰宅しては、家のことなど何一つしない。

家の中は酒の空き缶が散乱し、ごみひとつ片付いてやしない。

そんな家のこたつの中で祖母が背中を丸めてただ座っている。

 

杏は帰宅するや否や、母親から金をせびられる。

体売って稼いだ金をよこせと怒鳴ってくる。

蹴とばしてくる。頭を掴んでくる。

終いにはカッターで脅す。

 

そんな生活の中、身も心もボロボロな杏。

 

薬物所持で警察の厄介になるが、そこで彼女に「薬物をやめるための自助グループ」を薦めるのが、佐藤二朗演じる刑事・多々羅。

 

彼の人柄は昭和気質なめんどくさそうな親父に見えて愛嬌があり、誰とでもフランクに接する気さくな刑事だった。

 

とにかく薬物使用を撲滅した一心なのが、杏の面倒見の良さから伝わる。

徐々に心を許していく杏は、彼が運営する自助グループの仲間に入り、生活保護の相談、仕事の面倒、シェルターマンションの契約、そして学校の紹介など、多々羅の親切な行動によって、少しずつ普通の生活をできるようになっていく。

 

彼の自助グループに頻繁に顔を出す男性・桐野もまた杏の身を案じ、勉強を教えたり仕事を紹介するなどのサポートをすることで、2人に救われていく。

 

しかし桐野が多々羅に近づいた本当の理由は彼に関する疑惑を突き止めるためだった。

 

 

物語は、杏の生活環境と置かれた状況をフラットに描きながら、2人の異なるタイプの男性によって希望を見出していく前半、桐野が書いた多々羅への記事が明るみになったことで状況は一変、さらに追い打ちをかけるようにコロナウイルスの蔓延により、太くなっていった糸が絶たれてしまう事態になっていく後半へと進んでいく。

 

 

 

物語のターニングポイントは、何と言っても桐野の正義感と多々羅の正義による搾取。

多々羅は、グループに通う女性に関係を持とうとした疑惑があり、刑事である立場と薬物を利用したことで前科のある立場を利用して関係を迫り、さらには彼女以外にも同様の手口で関係を持ったことが桐野の取材によって明らかになる。

 

もちろん記事になり、多々羅は刑事をクビになり、さらには逮捕までされてしまうことに。

 

桐野の行ったことは確かに正しい。

刑事ともあろう者が、助ける代わりに見返りを求め、さらには強要までしているという職権濫用を暴いたわけだから。

しかし、彼が解雇及び逮捕されたことによって、これまで支えとしてきた自助グループの面々は、これからどうなってしまうのか。

 

一つ一つの積み重ねが大切であると強く語ってきた多々羅の言葉、そして定期的に続けてきたヨガも胸の内を語るグループセラピーも、あそこに集っていた者たちにとってどれだけの励みになっていたか。

それがなくなることで明らかに心身のバランスは崩れたに違いない。

 

もしかしたら再び薬物に手を出してしまうことだって考えられる。

 

杏もまたその1人であり、せっかく太く繋げてきた糸がプチンと切られたかのような絶望感を抱いていく。

 

 

こうしたことから、仲睦まじい三人の姿は消え失せ、タイトルのごとく「あんのこと」に焦点が絞られていく。

 

 

本作を観てあれ?と思ったこと。

それは、杏が最悪の結果になってしまった理由がコロナ禍ではあるものの、厳密にはコロナウイルスの襲来はきっかけの一つに過ぎない、もっと言えば最後の一押しのような事態だった。

 

そこまでの過程で家庭環境から何から詰んでるような人生で、そこに頼りにしていた刑事の別の顔が明るみになったことで支えが無くなる、そこにコロナ禍のせいで、学校も仕事も行けなくなり、そこに隣人から子供を押し付けられるという予想だにしない事態が起こる。

 

コロナ禍前はまだマシだった、では済まされないほど厳しい生活を送っていた彼女。多々羅と会うまでは生きてるのか死んでるのか、幸せなのか不幸せなのか、そんな大雑把な二択さえできていないような人生を歩んでいた。

誤解を招かないように言えば、ろくに学校さえ行けてないのだから、ことの分別さえもできなかったのではないか。

 

毒親のせいでこんなにも辛い日々を送っていたのだから、もう物語の頭から観ているこっちも辛い。

 

感情の波をグラフに表せるのであれば、いきなりマイナスからのスタートで、一人暮らしから夜間学校に行けた時点でプラマイゼロ、そしてコロナ禍で再びどん底に落ちていく、そんな波のある映画だったわけだが、個人的にはこの波をもう少し細かくつけて欲しかった。

 

後半、シェルターマンションの居場所を毒親に突き止められてしまう。

これがどうにも不可解で、物語をクライマックスへ持っていくためにやや強引につけた展開としか思えない。

どうやって母親がたどり着いたかを画面で見せてないことが大きな理由だし、断れない気持ちもわかるけど、せめてこれは自分の子供ではないことを母親に言えば、少しでも回避の活路を見出せたのではないかと思いたくなってしまった。

 

 

救われなければならない人に「あなたがこうすればよかった」と、こういう冷めた視線が、周り回って「自殺」する人を作ってるんだ、そう言われても否定出来ないし、本作はそうした我々のほっぺたを引っ叩く映画でもあるわけで、改善しなければならないと重々わかっているわけですが、やはりあそこは嫌なことを嫌だとしっかり突きつけていくことも生きていく上で大切なことなんだと、言える勇気も必要なんだと言っておこうと思います。

 

 

話が逸れましたが、それ以降コロナ禍が理由に見えて、実は、結局は「母親」のせいなんだって話になるんですよね。

あの時点でコロナ禍でなければ、杏は誰かに相談できたかもしれない。

でも、多々羅はいない。

 

そうなってくると、桐野のセリフ通り「僕があんな記事書かなければ、救えたかもしれない」にいきつく。

 

ただ、それは後の祭りであり、多々羅が言う通り「そんなの、わかんねえよ」なんだよなぁ。

 

 

最後に

結局何言ってんのかわからなくなってきましたが、こういう小さな物語を観て考えていく映画をそんなに積極的に見ないこともあって、どうしても社会がどうとかってことよりも「作り方」とか「芝居」とかばかり目がいってしまうんですよ。

 

 

そういう意味で構成の波とか、妙な点とかが気になってしまいがち。

今回は上で書いたように、無理やり「コロナ禍」を入れてない?入れなくても物語的に成立するよね?と思ってしまったまで。

 

とはいえ河合優実の薬物依存姿は強烈でしたし、優しさのあまり決断力が鈍くなってしまいがちな少女を演じるのピッタリですよね。

そこに、ユーモアセンスがありながらシリアスな役柄をすると、何か裏とか影を持ってそうなキャラがどハマりの佐藤二朗、正義の視点が強過ぎて他が疎かになってしまう姿勢を持ってるキャラを演じたら完璧な稲垣吾郎の3人の関係は、いいバランスだったように思えます。

 

ところで多々羅は、何故あそこまで薬物依存の撲滅を個人で活動しようと思ったんでしょうかね。

その理由ってのが、杏の視点ばかりのせいで全く映し出されてないのが疑問でした。

そこを入れたとしても物語に支障が出ないと思ったんですが、入れたら入れたでノイズになっちゃったのかな。

 

コロナ明けになっても未だ社会で苦しい日々を送っている人はたくさんいます。

物価も上がって日々をやりくりするのも大変ですし、そうした小さな積み重ねがやがて災いを招く事だってあるわけですから、みんなが「なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ」をなるべくいっぱい集めて、花瓶に水をあげられるような日々をおくれたらいいなぁと。

 

というわけで以上!あざっしたっ!!

満足度☆☆☆☆☆☆★★★★6/10