ブルーボーイ事件

洋画ではLGBTQ映画は盛んに作られています。
「真夜中のカーボーイ」や「狼たちの午後」なんてニューシネマでもすでに扱っているし、「ミルク」や「パレードへようこそ」などかつて権利と戦った人たちの実録ドラマもすでに製作されている。
日本でも「彼らが本気で編むときは」や「エゴイスト」などLGBTQ映画の製作が増えてきたものの、「エミリア・ペレス」や「タンジェリン」などいわゆる「当事者」俳優が抜擢される日本映画はほとんどなかった。
なぜなかったか。
先進国でありながらジェンダーには世界的に物凄く遅れてる理由が本作にはあった気がします。
そんな本作の予告です。
連日の東京国際映画祭での鑑賞が続き、今回は書かなくてもいいかなと思っていたんですが、テーマ的にも触れたいなと思ったし、映画的にも語っておきたいなと。
なので今回イントロダクションなしでダラダラ書きたいと思います。
まずはわたくしの簡単な投稿を。
#ブルーボーイ事件 東京国際映画祭にて鑑賞。監督も主演の方もトランスジェンダー。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) 2025年11月4日
だからこそ証言台に立って語る彼女の葛藤と「幸せ」についての思いに説得力があった。実際に起きた裁判から60年、あれから社会は彼女たちを幸せにしたのだろうか。
眩しさ溢れる錦戸亮、中村中の好演が印象的。 pic.twitter.com/UOnAJZv2sf
物語は日本で初めてのオリンピックに万博、大きなイベントによる交通インフラでできた新幹線など高度経済成長期真っただ中の1965年が舞台。
海外からたくさんの来場者が増えるとなると、国は全力で「きれいな国」を見せたがる。
近年行われるオリンピックやサッカーワールドカップでもたびたび聞きますが、例えばイベント会場付近にたむろしているホームレスを強制的に移動させる、なんて報道を目にします。
もちろん日本でもそうしたことは絶対あったはず。
それはいわゆる夜の繁華街でも「売春の取り締まり」が行われており、刑事たちは摘発するために飯屋でスタンバイ。
今でも新宿の大久保公園付近を歩けば「パパ活」待ちの女性が列をなしてますが、かつての繁華街でもそんな感じだったんでしょうか。
一般人のふりをして女性の前で金をちらつかせ、時間が来たら一斉に検挙する。
でも、この取り締まり、男が女性を買うのは対象だけど、男娼=ブルーボーイが男を買うのは法に触れないんだとか。
彼女たちは一度連行されはするものの罪には問われず、翌朝には釈放されるんですね。
こうしたイタチごっごをなんとかしたいということで、敏腕検事にお願いしたところ、彼女たちをしょっぴくのではなく、彼女たちを手術した医師を逮捕すればいいという発想に繋がります。
性転換手術、今でいう性別適合手術は「優生保護法」に違反するとのことで逮捕できると。
現在は母体保護法という名だそうですが、優生保護法は、「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的としてつくられた法律とのこと。
優生思想に基づき特定の病気や障害のある人への強制不妊の手術などはOKなんだけど、生殖を不能にする手術は優生目的ではないってことで禁止にしたんだとか。
これにより、彼女たちを担当した赤城先生は逮捕され、起訴されてしまうのであります。
そうなってくるとブルーボーイたちは別の医者を探すことになるんだけど、どこの産婦人科も取り扱ってくれないし、行き着くところはやぶ医者ばかりで危なっかしい。
一方、偉い先生から今回の弁護を依頼された錦戸亮演じる狩野は、赤城から手術を受けた人探しに奔走。
手術が「治療」であることを証明するためには彼女たちの証言が必要だったのであります。
舞台が60年代ということもあり、戦後の復興が行き届いた街並み。
ネオンサインも看板もファッション含めレトロな雰囲気漂う空気感はしっかり作りあがっていましたね。
特に狩野の妻と息子が買い物帰りに事務所に寄ったシーンでは、伊勢丹の紙袋をたくさんぶら下げ、家族で食事の予定が急な狩野の仕事によりキャンセルとなり、ぐずる子供に妻が「オムライス食べに行こう」と慰める一連のシーンは、きれいな服を着て百貨店に行き、洋食を食べるといういかにも当時の富裕層が休日にしてそうな時間を過ごしてる辺りが、良く漂ってましたね。
また冒頭では当時の「日活」の社名が出たりと、色々時代を合わせた演出が冴えてましたね。
こうしたほのぼのな日々は、本作の主人公サチにもしっかりありました。
喫茶店のウェイトレスで働きながら、夜は恋人の若村と食事。
中卒ながらもエンジニアとして評価され、アメリカと合同で仕事ができるかもしれないと嬉しそうに語る彼を見て、サチは幸せそうな笑みを浮かべているのであります。
そんな幸せな日々の中、狩野から「証言台になって証言してほしい」と依頼されるサチ。
あなたの手術を担当した医者が逮捕され裁判にかけられている。他にも証言できる人はいるが、二人とも水商売を生業にしてる人たち。
ちゃんと男性と同棲して普通の仕事をしてるのはあなたしかいない、そういう人でなければ今回勝つことはできない。
狩野はデリカシーのない発言を承知の上で必死に説得しますが、サチは「もう忘れたい」の一点張り、同席した若村も「迷惑だ」と怒りをぶつけます。
そもそも世間の日陰に隠れて暮らしてるような自分たちが、そんなところに立って証言でもしたものならば、今かみしめている幸せはあっという間に消え去ってしまう。
リスクしかない依頼を受けるなんて考えられるはずがないのです。
ただ、サチには「最後の手術」が残っていました。
赤城先生がいない今、色々さがしてはみるものの、ろくな医者はいない。
偶然再会したかつての同僚アー子にも同じことを言われ、呆然とするサチ。
アー子はようやくたまった資金で自分の店を持つことに成功していた。
開店準備で忙しい彼女を訪ねたサチは、証人として出廷することを告げる。
既に証言台に立って証言したメイは、彼らに利用されてはいけないと忠告するが、アー子はちゃんと自分の言葉で証明してみせる、先生を助けてみせると息巻いていた。
しかし、証言台に立ったアー子に突きつけられたのは「性転換症という精神障害」といわれたこと。
狩野は彼女たちが男としての性的興奮、勃起や自慰行為を経験していたにもかかわらず、女になりたいという気持ちは変わらなかったことを挙げ、それが性転換症であること、そして彼女たちの病気を治すには手術をすることは立派な治療行為であり、正当なものであるということを、堂々と裁判で主張したのであります。
もちろんアー子の心はズタボロ。
精神障害とか言われちゃあそりゃ泣くよ。
あれだけ熱い眼差しで頼んできたイケメン弁護士が、正々堂々と意味わからんことを体臭の面前で言うわけですよ。
心は女だから体も女にしたかっただけなのに、精神がおかしいだって?病気だって?
この後、アー子はサチの前ではカラ元気ですが、一人でヤケ酒中サラリーマンにからまれ喧嘩に遭い死んでしまうという…。
今でこそこれだけ情報にあふれているし、知らん間にLGBTQやらジェンダー聞きなれない言葉を普通に使っている。
きちんと正しく使えているか自信はないけれど、物心つく前やついたころの時代とは明らかにマイノリティに対する社会の在り方は変わりました。
変わった、と断言できてしまうのは自分が当事者ではないからだとわかっているうえで、あえて「変わった」といっておきましょう。
だって、明らかに子供の時に見聞きしたような差別は、テレビでもやってない。正確には控えてるといった方が良いのか。
でも60年前はまだまだそういった人たちに不寛容な時代だったわけです。
だってあんなに賢い弁護士先生が、アー子の前で「一生懸命勉強したんです!」と言うんですよ。
今でこそ「何を勉強したん?」と首を傾げられますけど、そう疑問を投げられる人が当事者以外にいなかったっていうね。
ただね、弁護士演じた錦戸亮が良いんですよ。
もっと彼目線で物語を描いたほうがよかったかもしれないくらい、キャラとして際立ってました。
彼はあくまでひいきにしてる偉い先生から頼まれて仕事をしたにすぎないんだけど、勤勉な人ってのもあって、やるからにはとことん勉強して臨んだんだと思うんです。
アメリカでは性転換手術は治療としても医療としても進んでて、なぜ日本はこんなに遅れを取ってるのかとか、被告の罪を少しでも軽くしたい思いがゆえに、この方法に至ったと。
これを一点の曇りもない眼差しで職務を全うしてく姿が、色々間違ってるのに清々しく見える。
もちろんこの後、大失態を犯したことに気づき、証人予定だったサチから遠ざけられてしまうわけです。
物語の解説を省きますが、後半はサチが証言台になって「自分は今幸せなのか」を語っていきます。
主演を務めた中川さんてかたは演技未経験の方なんですが、オーディションでこの証言をする演技をした際、自身と役が見事にマッチして演じてるように見えたことから抜擢されたそうで、終盤での発言は、当事者ではない自分も重く受け止めたほど真に迫った言葉と表情でした。
ほとんどフィックスでカメラ目線で語る故、どうしても映画的な演出が弱いと思ってしまいましたが、芝居の経験がない人をどうやって迫真に見せるかという問題を、この選択でしたのはよかったのではないかと。
要は複数のカメラを意識させず、とりあえず裁判長にだけ目線を送って話せば、あとはセリフに感情を込めて言えばいいという難易度だったと思うので、緊張はしたと思うけどよくできたのではないでしょうか。
そんなサチが語る幸せ。
正直、赤城医師のした手術は違法か合法化をめぐる裁判なのに、だいぶ道がそれてるように思えて仕方なかったんですが、サチがこれを語ることである主張ができるという手段だったわけです。
これは実際に映画を見て頷いて欲しいんですが、色々気づかされましたよ。
何故性別で括られなければいけないのか、男でなきゃいけないのか、女になるならしっかり女にならなけりゃいけないのか。
そもそも法律がそうさせてくれじゃないか、だったらいま私はどう立ち振る舞えばいいのか…って次元の話ではないってこと。
もはや性別なんてどうでもいい、わたしはいったい何なのかというアイデンティティにまで及ぶ話へと展開していくわけです。
では、わたしはいま幸せなのか。
もちろん自分を女と思って好いてくれる恋人がいる、今回の件でバイトもクビになり、彼のプロジェクトから外されるという不遇を受けてはいるが、手術も残りわずかの中、こうして必要とされている。
女の体を手に入れても何も変わらなかった、もはや女としての幸せ、わたしの幸せは何を変えればもたらされるのか。
こうした投げかけが、当時起きた裁判のドラマを通じて、今に訴えかけるわけです。
さっきも言ったように子供のころに比べれば、もちろん当時から比べれば、明らかに環境は変わった。
が、です。
彼女たちが、トランスジェンダーが望む「幸せ」は訪れたのかって話。
もちろん何人もその幸せを求めていいのです。
だからこそ、このままではいけない、と。
色々複雑な気持ちではありました。
そもそも俺は今幸せだなんて思っちゃいない。
人のこと考えてるくらいならまずは自分の幸せを優先する、
だけども、だ。
そして彼ら彼女らを抑圧する者たちがいるのも放ってはおけない。
劇中登場する検事が、まぁ~~~腹立つことを声を荒げて語るんですわ。
本当に、彼女たちのことが嫌なんでしょうね。
男として生を受けたからには!と、「~でなければならない」という断定で、決めつけで物事を語るわけです。
挙句の果てには、命を懸けて死んでいった先人たちに日本を任された身、あいつらのような人間を野放しにしたようでは日本は衰退する!!!とか軍人的思考をお持ちの様子。
そちらにはそちらのお考えがあるようですが、別に関係なくないですか、何かあなたがされたんですかって話ですよ。
まぁね、色々問題はありますよ。見た目は男なのにトランスジェンダーですといえば女子トイレにも入れたり、最悪オリンピックに女子として参加できる…ってのは俺も違うとは思う。
違う、と断定してはいけませんね、議論の余地があるといった方が良いか。
まぁとにかく、こういう宿題を渡される映画でした。
監督と主演の方がトランスジェンダーって、日本映画では本当にこれまでなかったこと。
ようやく進歩できたわけですよ、日本も。
当事者の役を当事者が演じるのは自然なこと。もちろん彼らだけが演じてはいけないって論調も違う。
窓口が大きくなればいいなと。
冒頭で「先進国でありながらジェンダーレスには世界的に物凄く遅れてる理由」と書きましたが、この事件が遅らせたといっても過言ではありません。
調べれば出てきますが、性別適合手術自体は違法とされなかったのですが、医師の有罪は確定されたのです。
よって、他の医師たちは「俺たちも手術したら逮捕される」と考えた末、萎縮してしまったわけです。
そこから再開されるまで30年もたってしまったとのこと。
たかが乱れた風紀を整えるために使った手段が、ここまで性別移行を遅らせてしまった責任は誰にあるのでしょうか。
こうした映画が日本でもできたことに称賛したい一方で、やはり諸外国のこの手の映画ほどの芸術点は低く、何か目を見張るような芝居や演出、映像に関しては満足には程遠かったです。
予算の都合作り込む余裕はなかったのかもしれませんが、もう少し「映画」だということを示してほしかった。
これではTVのドキュメンタリードラマとそう変わらないなと。
というわけで以上っ!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆★★★★★5/10