ジョーカー フォリ・ア・ドゥ
DCコミックスが生んだ最強のヴィランを、それまでのユニバースとは一線を画して製作された「ジョーカー」。
マーティン・スコセッシ監督の名作「キング・オブ・コメディ」を引き合いに、孤独な大道芸人の男が、なぜジョーカーへと変貌を遂げたのかを、喜劇と悲劇の境界線を曖昧に演出しながらスリリングに仕上げた作品でした。
観賞後はファンの間で「あれは妄想なのか現実なのか」で議論を巻き起こしましたが、個人的にはやはり時系列的に微妙なズレを感じたため、やはりあれはジョーカーの妄想にすぎないんだろうな、でも絶対的悪誕生の瞬間を目の当たりにしたという意味では素晴らしかったように思えます。
だから正直、続編なんて作る必要なんてないとどこかで思っていたので、今回の「フォリ・ア・ドゥ」はそこまでの期待はしておりません。
先に公開された海外のレビューも酷評になっており、せっかく作った伝説にケチがついたっちゃじゃねえか!と思われても仕方ないよなと。
それでもやはり製作されたのだから見に行く必要はあるよなと、まだギリギリアメコミファンの自分は、今回もいち早く足を運んで観賞してまいりました。
作品情報
仲間の結婚式前夜に酔っ払ってとんでもないことをしでかしてしまう男性たちをコミカルに描いた「ハングオーバー!」シリーズで一躍トップクリエイターの仲間入りを果たしたトッド・フィリップス監督が手掛けた「ジョーカー」の続編。
前作から2年後のアーカム精神病院を舞台に、同じ囚人である女性と恋に落ち、やがて2人の狂気が群衆へと伝染し暴走していく様を、往年のミュージカルを絡めながら様々な仕掛けによって妄想と現実の境界線を曖昧にし、驚愕のラストへと誘っていく。
前作がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞、それを皮切りに世界中で社会現象を巻き起こすほどにまで待った作品を手掛けたトッド・フィリップスは、コロナ禍でのロックダウンがアイディアを膨らませる時間を与えてくれたと語る。
ただ続編を描くだけでは意味がない、そう考えた監督は「往年のミュージカル映画」を取り入れることで、ジョーカーとハーレイクインによる狂騒をより強固なモノへと映し出すことに成功したと語っている。
そんな本作には、前作で圧倒的な演技を見せつけ、アカデミー賞主演男優賞を受賞したホアキン・フェニックスが続投。
監督曰く「続編製作において一番のハードルは彼」と語るほど忙しく、仕事への取り組みにもこだわりのあるホアキンが、本作で再び新たなジョーカー像を構築していく。
そして本作のヒロインでリー(ハーレイクイン)役を務めるのは、「アリー/スター誕生」、「ハウス・オブ・グッチ」と映画スターのキャリアを着々と詰んでいる世界的歌手のレディ・ガガ。
「アリー~」でプロデューサーを務めた監督との仕事の経験もあり抜擢された彼女は、本作で歌唱シーンも用意されているほか、シンガーソングライターだからこそできる表現力で映画に輝きを与えていく。
他にも、「マルコヴィッチの穴」、Netflix映画「アダム&アダム」のキャサリン・キーナー、「パディントン2」、「イニシェリン島の精霊」のブレンダン・グリーソン、前作でアーサーの隣人役を務めたザジー・ビーツ、「ナイトミュージアム」シリーズ、「ロスト・キング 500年越しの運命」のスティーヴ・クーガンなどが出演する。
「フォリ・ア・ドゥ」とは、フランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のこと。
ジョーカーとハーレイクインの妄想と狂騒が、一体どのようにして感染していくのか。
そして待ち受ける驚愕のラストとは。
観賞後、様々な解釈や考察で溢れること必至の本作。
その時、既に我々は彼の術中にハマっている。
あらすじ
理不尽な世の中の代弁者として、時代の寵児となったジョーカー(ホアキン・フェニックス)。
彼の前に突然現れた謎の女リー(レディー・ガガ)とともに、狂乱が世界へ伝播していく。
孤独で心優しかった男の暴走の行方とは?
誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界――彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか?
衝撃のラストに備えよ。(HPより抜粋)
感想
#ジョーカー2 フォリ・ア・ドゥ観賞。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) October 11, 2024
シェルブールにワンフロムザハートな法廷ミュージカル。
意外と「ぱいすぅ〜」映画だったことに驚き。
インフルエンサーとかこれ見てどう思ったんだろうか。ジョーカーの仮面つけて盛り上がってる連中はどう思ったんだろうか。 pic.twitter.com/WZZh2JEQU9
正直「酷評の嵐」ってのが信じられないくらい、まともな映画だったよ。
確かにミュージカルは退屈だけど、筋は通ってる。
信者ってさぁ、怖いなって思った。
以下、ネタバレします。
こんな酸っぱい映画だったなんて。
前作の「ジョーカー」では、虐げられたアーサーの怒りが爆発し、それにより憎悪や狂気が連鎖していく様を、妄想と現実を織り交ぜることで「ジョーカー」の不気味さを描いた「喜劇」でしたが、本作はそんなアーサーの狂気を封じ込み、自ら生み出した狂気の存在が、果たして本人自身なのかそれとも全くの別人なのかに葛藤し、アーサーではなくジョーカーに心酔したハーレイとの「夢の世界」に現を抜かしたアーサーに、現実が突き刺さる「悲劇」でした。
ザックリ物語を解説すると、前作で6人殺した罪(母親はカウントされてない)による裁判が始まるアーサーの前に突如現れた謎の女性「リー」。
彼が生み出した「悪の権化」に心底惚れたリーは、彼と共に「山を作る」=家庭を築きたいと告白。
自分に恋した女性に惚れたアーサーは、彼女の事にばかり耳を傾けてばかりで、女性弁護士の助言「アーサーとジョーカーは別人格を主張することで無罪を勝ち取る」という手段に疑問を抱いていく。
証人には彼が妄想で恋人だと勘違いした隣人や、ピエロ仲間の同僚ゲイリーなどが、アーサーとしての本性を明かすことで、傍聴席の人間やアーサー自身も堪えられなくなっていく。
そこでアーサーは自分で弁護すると言い出し世間を驚かせていく。
自己弁護をすることで収容所の囚人たちは歓喜し、看守たちも手に負えなくなっていく。
しかし高校もロクに出ていないアーサーの自己弁護は支離滅裂としており、ショーじみたモノと化し、中々優勢に持ち込めない。
しかもその姿に腹が立った看守たちは彼をトイレで集団リンチし、戦意喪失させていく。
ジョーカーでいる事=夢を見る事に疲れたアーサーは、最終弁論で「自分はジョーカーではない」と告白。
傍聴席で聴いていたリーは失望し、法廷を飛び出していく。
判決の結果は有罪。
持病が再発し笑いが止まらなくなったアーサーは法廷い侮辱罪を言い渡されるrが、その瞬間法廷が外から爆破され、アーサーは徐に外へ逃げ出すのであった。
家の近くの長い階段でリーと再会したアーサーは、妊娠した自分の子と家庭を築こうとせっつくも、もはやジョーカーではないあなたに用はないと別れを告げられる。
収容所で寡黙に過ごすアーサーの前に、別の囚人が「ジョークを聞いてくれ」と、面会に向かう彼を引き留め、ジョークを話した途端、アーサーは囚人に刺されてしまう。
・・・というのがザックリしたあらすじです。
正直これがなぜ「酷評の嵐」なのか俺にはよくわからない。
ジョーカーによる「もっととんでもない狂気」を見たかったのに見せてくれなかったからなのか。
終始歌って踊ってのミュージカルで、物語にハリがなかったからなのか。
レビューを覗いてないのではっきりした理由はわからないが、大半は皆「ジョーカーに心酔」していたから、あんな見苦しい姿に失望したのではないか?と思う。
要はアーサーではなくジョーカーとして彼を崇拝し、リーと共に夢を見せられ、彼の本音を聞いて失望した、だから「つまらない」と言ってるのではないかと。
確かに彼は障がいを持っている貧困層の人間として、世間が抱く「不満」を暴力で解消させた張本人であり、彼が何か悪事を働けば別に俺たちが何しても構わないとか、寧ろ彼が弱者たちを救ってくれる、そんな救世主だと思っているから前作は評価されたのではないかと。
実際SNSのインフルエンサーが何か失態したときの跳ね返りを見るに、失態を犯した教祖に対する信者の手のひら返しは半端ないですし、何よりも祭られた側が信者やファンの多さに調子にのって、自分で上り詰めたと勘違いしている輩も結構見かけるんですよ。
そういう人たちがこの映画を見て、まるで自分の事のように感じたって声が聞こえないのが不思議でしょうがない。
本作ってそういう映画だったんじゃないかなと。
また「ジョーカー」然り「ダークナイト」然り、映画に触発されて銃乱射だのしてしまうほどの社会問題に発展したことが実際に遭ったわけで、映画から学ぶことは素晴らしいけど映画に影響を受けて悪事を働いても、それは愚かであるということを、監督であるトッド・フィリップスは、本作を通じてしっかり「落とし前」をつけたのではないかと。
夢から醒めろと。
それはまたアーサーも同じで、泡沫の恋に魅せられて現を抜かすけど、現実を突き付けられることで、ジョーカーとしている事に疲れ、皆やリーの期待には応えられないと。
でもリーだけは本当の自分をさらけ出しても受け入れてくれる、そう信じてたのにあんな仕打ちを受けるなんて、クソ悲しいですよ、ぱいすぅ~ですよ。
そういう意味で言うと童貞映画といっても過言ではありません。
好きな女の子に夢中になってカッコつけたけど、カッコつけるのはもうやめた、本当の自分を見てほしい、僕は君と「山を作りたい」んだと。
なのに君は「カッコつけてた時のあなたが好きだったのに、そんなダサい奴だったなんてあきれたわ」と見捨てられちゃうわけですよ。
こんな悲しいことってありますか。
そう考えるとアーサーって、全部女性によって人生狂わされてるんですよね。
虐待をし続けた母親、それによって開花した妄想癖によって隣人を一方的に好きになる、そして今回のハーレイクイン。
女に狂わされた人生だったんだと思うと、気が気でありません。
彼女らが少しでも彼をいたわってあげればこんなことにはならなかったんじゃないかと。
だから僕が今回抱いたアーサーへの思いは前作とは打って変わって「可哀想」だと。
ミュージカルである必要はあったのか。
とまぁ、色々複雑な気持ちを抱きつつ観賞していたわけですが、正直一番複雑だったのは、「ミュージカル」演出をしたという選択です。
前作ではまるでなかった要素を、アーサーの妄想世界で見せていくミュージカル演出。
マレーのTVショーの司会で歌い上げたり、裁判の最中に脳内で傍聴席の連中や陪審員、裁判長にまで手を出してめちゃくちゃにしながら「俺がジョーカーだ!!」と声高に歌い上げるアーサー。
他にもリーとの甘いときめきに溺れていくアーカム病院の屋上で青い月夜に晒されながらダンスを踊り合いを確かめる2人の様子など、とにかく女に恋するとアーサーの妄想は「ミュージカル」になっていくというのが本作で明かされます。
確かに好きな人ができると鼻歌歌いだしたり、急にステップ踏んだりと、それまで見ていた世界がばら色になってルンルン♪って気持ちになりますもんね。
アーサーにも俺らと同じような浮かれた気持ちになるってことですよ、恋する乙女ならぬ恋する青年です。
歌と踊りはそれ以外にも、リーとの会話で突然始まります。
個人的に一番象徴的だったのは、面会室でガラス越しにデュエットするカーペンターズの「Close to you」でしょうか。
あなたはジョーカー、だから道行く人も青い鳥もあなたが通れば振り返り、あなたのそばにいたくなると。
私もその一人だという愛の告白を面会室で繰り広げるシーンは、静かな空気の中しっとりと歌い上げる2人のハーモニーが素晴らしかったと思います。
冒頭でも「ザッツエンタテインメント」と、人生は夢の舞台であることを高らかに歌いながらも、エンディングではそれとは真逆の意味でエンタテインメントと評する歌のサンドイッチには脱帽です。
と褒めつつも、やっぱりどうも「ジョーカー」と「ミュージカル」がマッチしているとは思えないという複雑な気持ち。
別に歌を歌わずとも会話で何とか出来やしなかったのかと。
前作って妄想と現実の境目が全く分からないから翻弄されたのに、今回はしっかり妄想世界が「ミュージカル」になって見せているから、ある種わかりやすさがある一方で、それじゃジョーカーじゃなくね?みたいな気持ちになるというか。
現実と地続きに見えるからこそ面白かったのに、しっかり線引きさせられると気持ちが引いてしまうんですよね、「また歌か」と。
しかも極端な事言うとミュージカルってアクション映画と似たようなもんで、そこで話が止まるんですよ。
アクションとは違って心情吐露する時間だから、全く話が止まらないわけではないんだけど、そんなにみんなしっかり歌詞を追ってないぞと。
だったら会話で言わせた方が、話が入るしロマンティックにもできるはずだろ?と。
しかも今回のミュージカル演出はジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」のようなタイプの歌をやろうとしてるのに、それが一貫してないからややこしい。
色味も映像に拘ったからなのかコッポラの「ワン・フロム・ザハート」のように妙に美しかったりするくせに、テンポがよろしくないのでどんどん映画を見てる気持ちが冷めていく。
そりゃ複雑になるよなと。
最後に
とまぁ、前作の方がまだ面白いよなと思いつつも、こんなにぱいすぅ~な気持ちになるとは思ってもおらず、ジョーカーにではなくアーサーに同情しかないという何とも切ない「悲劇」の物語でしたよと。
しかしあれですね、ひどい仕打ちをされてジョーカーの看板を下ろして本当の自分をさらけ出す勇気も買いますけど、やっぱり私生活もTVの中でも「キムタク」であり続ける木村拓哉ってどんだけメンタル強いんだろうとも思った映画でしたねww
中々できないですよ、そんな芸当。
もうだってさ、突然発症してしまう「笑っちゃう」癖だったのに、ボコボコにされてる時はそれさえも忘れてしまうほど呆然としてるわけじゃないですか。
それって相当メンタルやられてるってことですよ。
ジョーカーで居続けることでリーや弱者たちから称賛される気持ちよさよりも、本来のアーサーに戻って平穏に暮らした方が自分にとってはベターであることを選択したわけですよ。
それに戻れたのも、唯一の希望を胸に抱いていたからなわけで。
その希望すらも裏切られ、終いには刺殺されてしまうという悲しい結末。
だからこれ、監督は今回の賛否両論は「してやったり」だと思うんですよね。
如何にジョーカーに心酔された者たちが今回失望したか、それはもう作り手の術中にハマっている証拠です。
やはり悪が蔓延るようなアイコンはこの世には必要ないんでんすよ。
ちゃんと「落とし前」をつけないとよくないし、ジョーカーに感化される連中を作ってはならない。
喜劇と悲劇は紙一重だなんていいますけど、正にファンからすれば「悲劇」で、監督から見れば、この反応は「喜劇」なんでしょうね。
そういう意味では非常に巧いやり口だったのかなと。
色々納得できない個所もありますが、僕は概ねOKでした。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆☆★★★★6/10