さよならはスローボールで

野球よりサッカー派のモンキーです。
カタールW杯以降、サッカー熱が再燃し、今や週末は映画と海外サッカー漬けの日々です。
ですが、こと映画になるとサッカーよりも野球の方が多く製作されてるし、その分名作や優れた作品が多い印象(ま、アメリカは野球だもんね)。
「がんばれベアーズ」に「フィールド・オブ・ドリームス」、「メジャーリーグ」に「マネーボール」と、誰もが一度は観たことあるだろう作品がそれを強く示してると思います。
今回鑑賞する映画は、それに匹敵する可能性あるんじゃね?って作品。
取り壊しが決まった野球場で最後の試合をするおっさんたちのお話、とのこと。
もうこれだけで哀愁とユーモアが感じられそうなワクワク感。
草野球チームですから、いわゆるプロとは違う「ユルさ」がきっとあふれているはず。
その辺を楽しみつつ、最後の草野球を見つめたいと思います。
早速鑑賞してまいりました!!
作品情報
独創的な映画作りで注目を集めるロサンゼルスを拠点とした映画製作コレクティブ“オムネス・フィルムズ”に所属する新鋭カーソン・ランド監督の長編デビュー作。
本作は昨年のカンヌ国際映画祭の監督週間に選出され話題を呼んだ。
取り壊しが決まった野球場で最後の草野球に興じる男たちが、どうか終わらせたくないという静かな葛藤を、ノスタルジックな輝きに満ちた映像で映し出し、オフビートなユーモアと哀愁で溢れた、センチメンタル・ベースボール・ムービー。
長編デビュー作ながら、確かな作家性と撮影監督出身の映像センスを惜しみなく発揮し多くの批評家を虜にした、これからの米インディペンデント映画界を背負う存在として注目されるオーソン・ランド監督。
本作は、野球場を主人公に、そして時間の流れを敵に見立て、役割を終える野球場への哀悼をテーマに製作したとのこと。
また、個性の詰まったチームスポーツであることから、カメラワークによって「個」と「集団」を表現することにも努めたとのこと。
本作に出演するのは、「アンカット・ダイヤモンド」の用心棒役にスカウトされ俳優デビューを果たしたキース・ウィリアム・リチャーズをはじめとした個性豊かなキャスト陣。
他にも、「スペースマン」の愛称で知られる、ボストン・レッドソックスとモントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ)で活躍したアメリカの元左投手、ビル・”スペースマン・リーや、ドキュメンタリー映画界の巨匠フレデリック・ワイズマンがラジオアナウンサーの声を担当するなど異色のキャスティングとなっている。
スローボールとは、大まかには球速100km/h未満で、大きな山なりの軌道を描く投げ方だそう。
キャッチャーミットに届くまで
「今日が終わってほしくない」、誰もが一度は悔やみながらも過行く時をかみしめたあの瞬間がここに。
あらすじ
地元で長く愛されてきた野球場<ソルジャーズ・フィールド>は、中学校建設のためもうすぐ取り壊される。
毎週末のように過ごしてきたこの球場に別れを告げるべく集まった草野球チームの面々。言葉にできない様々な思いを抱えながら、男たちは“最後の試合”を始める…。(HPより抜粋)
感想
#さよならはスローボールで 鑑賞。取り壊しになる野球場で、おっさんたちが最後の草野球をする、だけ。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) October 17, 2025
時には真剣になったり時にはグダグダになる彼らが、終わらせないための「ささやかな抵抗」をする姿に萌える。
ぶっちゃけ、1試合でそんなに時間かかるか!?とも思ったけどw pic.twitter.com/x6lFNnjcZS
少年野球とは違う「真剣」な姿のおっさんたち。
勝ちたいという欲が、次第に「終わらせたくない」欲に変わる。
終わらない祭りはない。だからこそその瞬間が愛おしい。
以下、ネタバレします。
正直、なんてことはないんだけど…
どうやら舞台となる町に住む子供たちは、中学校に行くのに30キロもかかるのだそう。
田舎町だろうから電車もないだろうし、スクールバスで通うのか、それとも親の送迎がマストなのかはわからないが、もし自分が子供を持つ親の立場なら、こんな町には住めない。
そんな、切実に中学校設立を願う親たちの思いが、この街で実現となる。
きっと多くの親たちは喜んだことだろうし、それに向けて動いた人たちもまた、町のために役立てたと誇れることだろう。
しかしその一方で、居場所を失ってしまう人たちもいる。
それが本作の主人公となる「おじさんたち」だ。
彼らは少し肌寒くなってきたハロウィン前の10月の16日に、この野球場で最後の試合をする。
草野球事情に疎いせいで、彼らが「趣味」程度の草野球にどれほど情熱を注いでいるのかはよくわからない。
変な話、ここで頑張ったところでプロから声がかかるわけでもないし、お給料がもらえるわけでもない。
社会人リーグでもリトルリーグでもないから、特別練習に時間を注いでるわけでもないだろう。
でも草野球に集まってくる彼らは、そこが居場所だからやってくるんだろう。
そこでしか生きた心地がしないからやってくるんだろう。
野球をするのが好きだから、野球が好きな連中が集まるからやってくるんだろう。
物語を見ても、おっさんたちは何の仕事をしているかはよくわからない。
大学に通う若者も交じって入るが、選手の大半はビールはピザやハンバーガーをたらふく食べて太った連中ばかり。
若い頃にプロを目指した者もいるかもしれない。
特に速球が売りのピッチャーをしていたおっさんはそう思えたりもする。
なんとなく透けて見えるのは、何かから取り残された男たちの挽歌が映画には詰まっていたのではないかということ。
何か大事なモノから目を背けていて、好きなことをただやるだけの日々を過ごしていたのかもしれない。
そのツケが、ここで回ってきたのかもしれない。
とはいえ、この平凡な日常をなぜ奪われなければいけないのかとも思う。
だからこそ、最後の試合を終わらせないためにささやかな抵抗をする姿にグッとくるものがある。
例えば、足しげく通っていた映画館が閉鎖するという一報を聞いて、ウチラの様な一般市民はどうすることもできない。
もっとたくさん通えばよかったと嘆くだろうし、財力があれば俺が買い取るのにと悔やむかもしれない。
結局は、時代の流れに押されて潰れる映画館の最後を、見届けることしかできない。
あの映画館であんな映画を見たな、こんなことがあったな、あそこのポップコーンはたいしてうまくなかったな、そんな当時の思い出を懐かしみながら、最後に「ありがとう」としか言えない。
こうしたことが人生においていくつもあったように思う。
その度に憂いたり悲しんだりしながらも、別の居場所を探してきた。
では、この映画のおっさんたちは、次にどこへいくのだろう。
錆びれた田舎町で草野球しか楽しむことができなかった彼らは、果たして数十キロも離れた場所で再び野球をするのだろうか。
映画の中では、野球をする姿だけしか映らないが、彼らの会話や佇まい、そしてあっけないラストの後ろ姿をみて、その後が気になって仕方がない。
最後なのに気張ってないのがいい。
なんかコラムみたいな書き方になってしまいましたw
ホント、なんてことのない映画なのに、感傷に浸れるノスタルジーな作品だったのではないでしょうか。
普通の野球映画なら、9回裏満塁で逆転!!のような劇的な展開がセオリーなのに、一切そんな描写もないし、そもそもこの試合の勝ち負けはどうでもいいという。
ぶっちゃけ主人公のような核を担うきゃらもいないし、遅刻をするやつもいれば途中で帰る奴もいる。
むっちゃ自由w
だいたいタバコ吸ったりビール飲んだりしながらプレーする時点でスポーツマンシップのかけらもないw
必死に打とうとしてるのに、しょうもない野次に腹が立って暴言を吐くシーンもあれば、その腹いせにちょっとした小話をして集中力を欠かせ盗塁に成功するようなユーモアあふれるシーンもある。
弾が飛んでこなくて退屈そうにしている外野の選手もいれば、ピッチャーの方を心配して試合を見つめるベンチの連中もいる。
彼女や家族にかっこいい所を見せたいがために、ギャラリーをちょこちょこ見ている選手もいる。
そんな彼らがこの試合で何かを得たり何かを変えるような姿はほとんどない。
ごくありふれた日常であり、ある種贅沢な退屈を見せられている気分になる。
だから正直ウトウトしてくることもあるんだけど、ずっと0点のまま動かない野球の試合を見てる時と同じような、そんな気分になるんじゃないかとw
とにかく最後の試合を最後までやりたいという意思はあるようで、日が暮れる頃には審判も帰っちゃうんですね。
妻が待っているからとか言ってw
そしたら誰が審判やるんだよ、もう試合できないだろ、解散!…とはいかないんですよ。
こんな形で終わらせたくないんですよ、彼らは。
だからずっとこのチームのスコアラーをしているフラニーっていうじいさんが、ベンチ裏から審判の代わりをするという、妙な展開になっていきます。
それでもなかなか終わらない試合。
途中、森の中からリーというおっさんが現れ、ベロンベロンで投げられないピッチャーの代わりに投げると言い放つんですが、気が付いたらいなくなってしまうという展開も。
電気代を祓ってないせいでスタンドライトが付かない状態の野球場。
それでも彼らは試合をどうにか続けようと試行錯誤します。
全員の車のヘッドライトを使って試合続行。
守備の選手はサングラスをかけて守るという妙な格好w
そして試合は、まさかのフォアボール押し出しで終了というあっけない幕切れ。
彼らは最後の試合を惜しむことなく、対戦相手と握手を交わしゴミや道具を片付け、足早に去っていく。
フラニーが最後に「人生で幸せな時間を過ごした」という冒頭で語った言葉を添えて去っていきます。
最後に
この町のマンホールは三角の形をしているらしい。
下手したら唯一かもしれない。
彼らはマンホールがまるではなく三角なのが一般的とも思っていた。
だが少しずつ丸いマンホールに変わっていくそうだ。
丸いマンホールに変わっていく町に、彼らの居場所はあるのだろうか。
対戦相手の中には中学校設立に一役買った人物もいて、彼の言動や行動に怒りをぶつける人もいるんだけど、そんな彼が一番この試合を終わらせたくない、最後までやり遂げたいという意思を感じました。
どうやらこの映画は90年代が舞台だそう。
今でこそアメリカでは野球よりもサッカーやF1の方が人気だって話だし、何より大谷翔平を知らない若者も多いようで、野球離れが進んでる印象があるけれど、ギャラリーの中にも野球のルールを知らないやつもいたりすることから、もうこの頃から野球って「何も起きないスポーツ」みたいなことから飽きられてたんじゃなかろうかと推測できる描写もありました。
変な話、誰も悲しまないんですよ。
悲しそうな顔をするけど、それを言葉にしない。
それがある種の男らしさとして描かれていて、そんな彼らの「終わり」を見ているかのような映画でもありました。
また、ピザのフードトラックをしているおじさんが店をたたんで旅をしたいと語る姿や、最後まで試合を見ずに帰るおじいさんの姿など、試合を見る人がそれにしがみつかずに次の人生を歩もうとしてるかのような姿も印象的。
決断は人それぞれだなとも思える使い方だったのではないでしょうか。
いわゆるインディペンデント映画に部類される映画で、こうした「何も起きない」群像劇からインディペンデント映画の父ロバート・アルトマンを彷彿とさせる映画でもあった気がします。
ラストでは花火そのものを映すのではなく、花火を見つめる選手の姿を捉えます。
鮮やかに彩る花火を見つめるおっさんの姿を見て、より哀愁が伝わるラストシーンだったのではないでしょうか。
失われるモノの最後を見つめる姿程、切ないものはありません。
冒頭でも言いましたが、やっぱサッカー映画はこうはならないよなぁw
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆☆★★★★6/10
