急に具合が悪くなる

正直言うとブログで感想を書きたくない、濱口だけは。
これまで「ドライブ・マイ・カー」や「偶然と想像」、「悪は存在しない」と、世界的に話題になってるから見ておかないと映画ファン的にまずい、そんな理由で「観た」だけだった。
はっきり言って俺の得意な分野じゃない。
ものすごく言葉というものを意識して書いているであろうセリフの長さや脚本、そこに魂が抜けたかのような棒読み感と動き。
日本映画は役者の面白い芝居が観たいから見ている節もあり、正直濱口の映画は演技がどうしても合わない。
映画仲間が言うにはブレッソンを意識した演出らしいが、ぶっちゃけそんなのどうでもいい。
合わないものは合わないのだ。(あ、偶然と想像だけは好き。あれはマジでおもろい)
だから今回鑑賞する「急に具合が悪くなる」も、話題になるから観るだけに留めたかったが、今回は割と内容が面白そうだと思い書いてみることにしました。
俺の濱口の感想など誰も楽しみにしてないのにと自己卑下をかましておきながら、淡い期待をする俺。
3時間16分もあるので、急に具合が悪くなって最後まで見れませんでしたぁ、なんて感想にならないよう祈りたい。
早速鑑賞してまいりました!!
作品情報
世界三大映画祭すべての主要賞を獲得、『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞®国際長編映画賞に輝き、世界中の映画ファンが待望していた濱口竜介監督の最新作は、着想から5年の月日をかけた、日本、フランス、ベルギー、ドイツによる国際共同製作で、濱口にとって初の海外ロケ作品。
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者・宮野真生子と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者・磯野真穂が交わした20通の往復書簡「急に具合が悪くなる」を原作に、介護施設で理想の介護の在り方を探求するマリー=ルーと、独創的な演劇の演出家でステージⅣのがん患者である真理という同じ名前を持つふたりが偶然に出会い、友情を超える絆を結ぶ物語。
主人公をフランス人と日本人に置き換え、まったく新たな物語がパリを舞台に展開する本作は、原作に流れるエッセンスを掬い上げ、「自分たちを取り巻く社会」そして、「この世界で生きること」を描き出す。
『ベネデッタ』で大きな注目を集めたヴィルジニー・エフィラと、トップモデルTAOとして活躍し、『ウルヴァリン:SAMURAI』ほか、ハリウッドを中心に活動する岡本多緒がW主演。
二人はカンヌ国際映画祭にて女優賞を受賞した。
さらに、『敵』で第37回東京国際映画祭最優秀男優賞に輝いた長塚京三、主演作『見はらし世代』ほか、その演技力が高い評価を受けている黒崎煌代の強烈な存在感が映画を支える。エフィラは日本語、岡本と長塚はフランス語のシーンも演じ、渾身の役作りを果たした黒崎ら俳優たちの演技も見逃せない。
彼女たちが過ごす数日間を凝縮した3時間16分間は、観る者の魂をも浄化する。
偶然が引き合わせ、急接近していくふたり。
人生でたった一度きりの、魂の邂逅――。
強く心を揺さぶる、比類なき傑作が誕生した。
(以上公式より抜粋)
あらすじ
パリ郊外の介護施設「⾃由の庭」の施設長であるマリー=ルー・フォンテーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)は⼊居者を⼈間らしくケアすることを理想としつつ、人手不足やスタッフの無理解などに悩まされている。
そんな中、マリー=ルーは森崎真理(岡本多緒)という日本人の演出家に出会う。
がん闘病中の真理が演出するのは、自閉スペクトラム症の孫・智樹(黒崎煌代)と行動を共にする俳優・清宮吾朗(長塚京三)の一人芝居。
真理の描く演劇に勇気をもらったマリー=ルー。
同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて、二人の交流が始まる。
しかし、あるとき真理は「急に具合が悪くなる」。
真理の病の進行とともに、二人の関係は劇的に深まり、互いの魂を通わせ合うようになる……。(公式より抜粋)
感想
#急に具合が悪くなる 鑑賞。不可能なことは不可能でしかない、可能になるまでは。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) June 19, 2026
2人の女性の邂逅から、資本主義の正体を解明し改善点を提示する3時間16分。
それはものすごく途方に暮れる作業だが、希望はある。世界はまだ捨てたもんじゃないとも思える。
同じ名前の2人がそう思わせてくれる。… pic.twitter.com/SIq1TJDEJU
映画を観に来たのに、どこか説法を聞きに来たような感覚はある。
でも3時間あったのに結構集中して見れたのには、監督の腕なんだろうなと思えた、案外心地いい時間。
以下、ネタバレします。
フレンドシップの話なんだけど。
冒頭から濱口なんて呼び捨てで言ってるので、ここは経緯を込めてぐっちょんと呼ぶことにしようw
正直今回のぐっちょんは、冒頭で俺が触れていた不安要素など全然なくてほっとした。
きっとフランス語と日本語がごちゃ混ぜになったことで、まわりくどい言い回しを回りくどいと思わなかったし、どんどん具合が悪くなっていく真理が感情を表現しなくてはならなかったので、「悪は存在しない」の時の様な芝居がまるでなかったことが功を奏したのではないかと。
とはいえ、普段でさえつたない文章で感想を書く俺が、3時間以上も尺のある分厚くてう深みのある、にも拘らずあっさり飲み込めてしまう恐れさえあるこの映画を語れるかどうか不安でさえある。
というか、俺の感想で汚してしまうんじゃないかという怖さもある。
それもこれもぐっちょんが今まで以上に「言葉」というモノを大事にしている節が、彼のインタビューからひしひしと伝わるから。
あんたが喋る度に、俺たちレビュワーのハードルが上がるってことを知ってくれw
・・・と前置きは置いといて、ものすごく掻い摘んであらすじを語るところから始めてみましょうか。
認知症患者をケアする施設でディレクターとして働くマリー=ルーは、「ユマニチュード」というケア技法を現場に落とし込むためのカリキュラムを実践していたが、どうしても現場の職員との軋轢が生じて、なかなかうまくいかない。
要は、上が決めた理想主義的方針のせいで、現場では人手が足りない負担がでかい、これじゃ体が持たないなど負の連鎖が生じ、総じて「やってらんねえ」と不満の声が上がっているってこと。
これ別に介護施設だけじゃなくてどこの分野でも起こっている現象だと思うんですよ。
上の連中がどんな方針を掲げようが何を決めようが、結局割を食うのは末端の現場なんです。
そりゃ企業としては外ヅラ良くしたいわけだから、エコやります!価格破壊します!など新しい取り組みを社会に向けてやるんだけど、現場のことなど全く考えてない。
ただでさえ人件費を削られモチベ上がんねえのに、持ち回りもタスクも増える一方。
挙句の果てには新人の面倒ときたもんだ。
労働時間が増え気が付きゃ残業、土日休みで体が休まるわけもなくアッという間に月曜日。
ランラララランで一週間、てバカタレい!
とはいうものの、この介護施設で取り入れているユマニチュードというケア技法が中々の代物だということが後々わかってくる。
ユマニチュードとは、フランス語の造語で「人間らしさを取り戻す」という意味を持ち、知覚・聴覚・触覚などを用いたコミュニケーションに基づく、認知症の方へのケア技法のことを指す、らしい。
劇中では、それまで精神病院やこうした施設で「効率」を最優先した結果、認知症患者を「人」ではなく「モノ」扱いしていた節があった。
それでは施設としての収支は上がったかもしれないが、最終的に認知症患者の身体的な維持や向上にはつながらない。
だからこそ、長期的にはなるがやってみる「価値」がある、とうことをマリー=ルーから語られるんだけど、さっきも言ったように現場の負担がデカいって話。
このカリキュラムを年3回やるんだけど、やっぱりきつくて辞めちゃうスタッフもちらほら。
物語の前半では、歩くことを目的とした時間も設けているんだけど、やっぱり患者が転倒してしまうんですよ。
それでベテラン看護師と口論になってしまい、ついマリー=ルーも彼女の尊厳を傷つけてしまうようなことを言ってしまう羽目に。
バスに乗り落ち込んで帰るマリー=ルーは、バスを併走して走る少年を発見。
ひたすら自分に手を振る少年が気がかりになって途中下車したマリー=ルーは、小高い丘で少年を保護することに。
自閉症であることがわかったマリー=ルーは彼の上着のポケットから保護者を呼ぶためのブザーを見つけ、雨宿りしながら待つことに。
そしてここで同じ名前の演出家でステージ4のがんを患っている真理と出会うのであります。
全然さくっとあらすじになってませんが、真理から演劇のチラシをもらい後日足を運んだマリー=ルーは、彼女が演出を手掛ける清宮吾朗の一人舞台をみることに。
なぜか観客は色んな楽器をもってるんですね。
シンバルとかウッドブロックとかちっちゃい木琴とか。
これを演劇中に勝手に鳴らすんですよ。
一体何のためかと思ったら、彼の孫である自閉症の少年・智樹くんが舞台に乱入するからなんですね。
真理の説明では「観客と舞台の垣根をなくすため」と言ってますが、実はこれが物語の中の問題を解決するヒントにもなっていたから驚き。
それは後に触れるとして、吾朗が演じた舞台の内容を説明しましょう。
舞台のタイトルはイタリア語で「近くで見ると誰もが狂っている」とかいうタイトル。
合ってなかったらごめんw
何故イタリア語のタイトルかというと、取り上げられる場所がイタリアだから。
どうやらイタリアには精神病院がないらしい。
そのきっかけを作ったイタリア人の医者が言うには「何をもって健康と言えるのか」という疑問。
人は誰しも狂気を持っている、それは精神病患者も健常者も同じだということを掲げ、それまで病院という大きな箱に閉じ込め患者の尊厳を奪っていたシステムを壊し、皆が同じ環境で共存することで病が改善するのではないかという革命を起こした、というのを吾朗が一人芝居するという内容でした。
この芝居の中で智樹が乱入しても吾朗は取り乱すどころか臨機応変して演じる姿を披露、観客もそれに呼応して突然楽器を鳴らすなどして、舞台と客という構造を壊す作用を見せていく。
これに感激したマリー=ルーは、演劇後のQ&Aで真理に日本語で質問をし、真理はそれに感謝を持って日本語で答える。
実は私ガンなんですという暴露を添えて。
こうしてマリー=ルーと真理は、一気に意気投合し自己紹介をしながら、とにかく会話というコミュニケーションを図っていく。
会場を出て風の強い天候にめげず楽しく会話で距離を測る2人。
夜が更け、人手の足りない夜勤に駆り出されても真理は彼女から離れない。
よほど彼女とウマが合うんだろうな、それは僕らが見ていてもめちゃめちゃ伝わる。
多分これを見た人のほとんどが、この2人の微笑ましいやり取りに見とれて時間を忘れたことだろう。
俺もその一人で、ま~~~じであっという間だったんですよ2人の会話が。
しかしですね、真理がマリー=ルーが働く施設に映ってから、俺がイメージしていた話とは違ってくるから少々困ったのであります。
自滅の一途をたどる資本主義社会に立ち向かうには。
2人が川沿いを歩きながら会話する最中、早稲田に在学していた時に学んだ資本主義社会について語るマリー=ルー(彼女が日本語ペラッペラなのはそういう過去があったから)。
なんでも、少子高齢化は資本主義社会のせいだと。
子供を作ると金を稼ぐために使えたはずの時間、労力、資金を消費するので、子供を作らなくなるから、みたいなこと言ってたような気がするけど具体的なことはよくわからん。
でも、家父長制の強い日本や韓国はこれが他の世界よりも進行が早かったようで、フランスもそれに追随してくだろうと語ってましたね。
その後、マリー=ルーがやってるユマニチュードを真理は体験しながら、彼女が悩んでる問題を解決するために、資本主義社会の正体を見破る話へとスライド。
説明するのめっちゃ難しいんですが、資本主義社会派それを保つためにその外側にあるモノ全てを食いつくしちゃうと。
ついには自然を食いつくすんだけど、無限にあると思っていた自然にも限界があった。
自然とは人間の労働も入るようで、このままでは社会派消滅してしまうのではないか、というのが真理の解釈。
これがマリー=ルーがやっているユマニチュードが浸透しない理由と直結するとこで、改善点が見えてくるのであります。
結局いかなる問題も「お金」があれば解決するんだけど、資本家が出してくれないから問題が起きる。
では今あるお金でどう解決するかってのを、後半で描いていくわけです。
ただね~、俺映画でこんなクロ現みたいな現実的なトピックに触れるとは思わなくてね。
映画を通じて知れる事ってたくさんあるんだけど、あまりにも直接的過ぎて引いてしまったんですよ。
確かにためになる話で見過ごしてはいけない、難しいからって無視してはいけない、自分の今や将来に関わる話なんだけど、俺、映画見に来てんのよ。
娯楽を楽しみたい、あわよくば消費したいと思って高いかね払ってきてるのに、がっつり社会の話されてもさぁ。
なんつうか、語り方ってあるじゃない?
社会派の映画だったら受け止められるんだけど、もうちょっとオブラートに包んでみるとか、何かに例えて語ってみるとかできるはずなのに、あまりにも生々しい。
さすがに引いてしまった、厳密には複雑な気持ちになったのだけど、これもしかしたらね、劇中何度も出ている「垣根を超える」って所にもつながる部分だったのかもと考えると、色々腑に落ちたりはするんですよ。
実在しない2人が物語の枠を超えて、今我々が直視できないでいる問題の構造を炙り出して、どう対処すればいいかを提示する。
それがこの映画の醍醐味だと。
困惑した中盤から後半は、真理の病状が悪化するも、解決に向けて走っていく2人の姿が映し出されます。
凄いよね~だいぶ話しちゃったからなぁと思ったら、まだ半分しか触れてないっていうボリュームw
そう、マジでね書き切らないこれw
一体どのようにしてユマニチュードという技法を活性化させるか、そして真理とマリー=ルーの友情が描かれていくかは見てもらうとして、もっと具体的な感想を語っていこうかと思うんですが。
2人の出会い、邂逅ってやつですか。
偶然と捉えるのか運命と捉えるのかは二人次第なんだけど、偶然を偶然で終わらせないためにコミュニケーションは必要だってことを言ってる気がするんですよね。
個人的な話になるんだけど、俺は自分を語るのが好きなんですね。
こんなブログやってるくらいだから周知の通りなんだろうけど、マジで好き。
自分が好きというわけではないが、このしょうもない俺を知ってほしいとは思ってる。
だけど残念なことに他人に興味がない。
興味がないと片づけてはいるが、実際は相手に相手のことを聞けないとも言える。
これは遠慮してると言えば聞こえはいいが、恐らく「聞いちゃいけないことを聞いてしまいそう」という恐れから来てると自己分析してる。
決して興味がないわけではないけど、聞けないんですよ。
もし聞いてしまったら「こいつデリカシーない」みたいな思われそうで、怖い。
それでコミュニケーションて成立するんだろうかという悩みはずっと持ってるわけですよ。
もしそこに勇気をもって色々ツッコんだら、真理とマリー=ルーのような短くも濃密な時間を過ごすことはできるんだろうか、または監督が言っている「魂の分け合い」ができるのだろうか。
そんなことね、見ながら思ったわけですよ。
要はさ、自分を主張することも大事だけど他者を理解していくこともコミュニケーションなんだよと。
劇中真理が堂々と、「あなたは誰?」なんて聞くんだけど、俺も今度やってみようかなw
最後に
風景描写も良いなと思える瞬間が結構あって。
例えばマリー=ルーと真理がベンチで一服するシーンでは、二人が立ち去るあと夜が明けていくんだけど、マリー=ルーの職場の問題は解決するよ=夜が明けるよなって言ってるように見えるし、真理の病状が悪化する第3幕の幕開けが、新幹線のトンネルから始まるってのも、真理の病状を示唆してるかのような挿入でしたし、その後京都の実家の近くの山でカップヌードルを食べるシーンでは、マリー=ルーがフランスに来てほしいとお願いするんだけど、ラーメン待っている間に霧が晴れていく風景が、その後の物語の行方を物語っているようにも見えるわけですよ。
また、2人の会話がとにかく続く中で、コーヒーが沸くまでとか、カップヌードルを待つ間といったタイムリミットを設けることで、二人の会話の時間の経過がわかるようになってるのも特徴的。
それがどんな効果をもたらすのか説明するのが難しいんだけど、演出として好みだなってことに気付いた部分でもありました。
語るのに文字数が全然足らないんだけど、色々要約すると2人が出会い語り合ったおよそ2週間の中で、資本主義社会にもにた介護施設での問題を、真理のワークショップと演劇でのアクシデントによって希望を見出していくというモノ凄い高揚感で幕を閉じる物語でした(めっちゃあっさり言うじゃんw)。
演者は全員良いんだけど、その中でも自閉症の少年を演じた黒崎煌代くんの覚悟と勇気を持った演技は見惚れましたね。
誰もがあれを褒めることでしょう。簡単にできる芝居じゃないし研究しないと見に付けられない芸当でしたよ。
ものすごく悪く言えばそんな絵空事言われてもと揶揄できるけど、劇中でも言っていたように「不可能なことは不可能でしかない、可能になるまでは」に尽きるよなと。
現にイタリアには精神病院を無くすことに成功したわけですよ、今はどうだか知らんけど。
認知症患者と共生するために中と外という枠組みを無くす試みがうまくいけば、他の分野でも応用できるんじゃねえか。
長い道のりだけど、やってみる価値はある。
社会だっていつ「急に具合が悪くなる」かわからない、今のシステムはそれくらい危うい、気もする。
あんまし俺の好きな映画じゃないんですが、これは心地いい3時間でした。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆☆★★★★6/10
