モンキー的映画のススメ

モンキー的映画のススメ

主に新作映画について個人の感想、意見を述べた文才のない男の自己満ブログ

映画「落下の解剖学」感想ネタバレあり解説 事実の証明は他者の印象操作によって歪められていく。

落下の解剖学

人間誰しも「側面」を持っていると思っています。

ある一方で見せる「顔」と、もう一方で見せる「顔」、それが2つしかないものもいれば、多数持っている者もいる。

「イメージ」が重要視される芸能人で例えると、我々が見るTVの姿と、プライベートの姿が同じ人もいれば、そうでない人もおそらくいることでしょう。

 

また、それは「主観」と「客観」によって全く別の物事になることも事実。

映画「最後の決闘裁判」や「ブラインドスポッティング」のように、事実と真実は対象の視点ごとに全く別のものに見えてしまうのです。

 

さらにやっかいなのは、それを「操作」することもできること。

著名人が発した言葉がSNSなどで「切り抜き」され、独り歩きしてしまい、全く別の形で受け取られてしまうこともしばしば。

もっと言えば、報道だって誰かの手によって捻じ曲げることも可能だったりするのです。

 

そうした中、我々は何を信じ、何を疑えばいいのか。

 

今回観賞する映画は、夫殺しの容疑者にされた妻の真相を、盲目の子供視点で見せるサスペンス。

何が事実で何が真実かよりも、もっと大切な視点を与えてくれそうな作品だと期待しております。

早速観賞してまいりました。

 

 

作品情報

フランスのアカデミー賞と呼ばれる「セザール賞」で着々と評価を上げ、本作でカンヌ国際映画祭最高賞であるパルムドールを受賞したジュスティーヌ・トリエ監督の長編作品4作目。

 

人里離れた山荘で転落死した夫の殺害容疑にかけられた妻を巡る法廷劇を、現場に居合わせた視覚障がいの息子の視点によって描くサスペンス映画。

 

ゴールデングローブ賞で脚本賞と非英語作品賞の2部門を受賞、第96回アカデミー賞でも作品賞はじめ5部門にノミネート。

もし作品賞を受賞すれば「パラサイト半地下の家族」以来となる、カンヌとアカデミー賞の2冠を達成する快挙となり、日本での公開に向けて日に日に期待値を上げている作品だ。

 

不仲の夫婦に起こった夫転落死が自殺か他殺かを問うミステリーを、事件の真相を暴くことに焦点を当てず、情報を元に無意識の偏見が生まれる人間の本質を描いた本作。

監督の私生活のパートナーであり、「ONODA一万夜を越えて」で脚本と監督を務めたアルチュール・アラリと共に脚本を執筆した。

 

主演には、「ありがとう、トニ・エルドマン」での演技が評価され、本作と共にアカデミー賞にノミネートされている「関心領域」にも出演しているザンドラ・ヒュラー

人気作家としての知的なポーカーフェイスの下で、底なしの冷酷さと自我を爆発させる圧巻の演技が評価され、アカデミー賞でも主演女優賞にノミネートされる快挙を成し遂げた。

 

他にも、「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」のスワン・アルロー、「ヒューマニティ通り8番地」のミロ・マシャド・グラネール、「BPM ビート・パー・ミニット」のアントワーヌ・レナルツ、そして本作のカギを握る愛犬スヌープ役でパルムドッグ賞を受賞したボーダーコリーのメッシが出演する。

 

誰かの偏見により人の人生を狂わせることは容易であると伝える本作。

観る者は想像もしなかった人間の深淵に、登場人物たちと共に〈落ちて〉いく。

 

ありがとう、トニ・エルドマン(字幕版)

 

あらすじ

 

視覚障がいを持つ息子は、ある日、父親が血を流し倒れているのを発見する。

息子の悲鳴を聞いた母親が救助要請を行うも、すでに男は息絶えていた。

 

当初は転落事故かと思われたが、その死には不審点が多く、しだいに被害者の妻でベストセラー作家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)に殺人容疑が向けられていく。

 

無実を必死に訴えるサンドラだったが、事件の真相を追うなかで、夫婦の嘘や秘密が明らかになる。(Movie Walkerより抜粋)

youtu.be

 

 

感想

もし俺がサンドラだったら裁判中泣いてるよ…、「なんで息子の前でこんな思いして過去をほじくられなきゃいけないんだ…」ってね。

あらゆる「真実」が重なることで「事実」が消えかけ、印象が先行することで「偏見」と化していく。

俺たちはたくさんメガネをかけてしまってることに気付くべきだ。

以下、ネタバレします。

 

 

 

 

 

 

 

「真実」と「事実」、「印象」と「証明」。

映画の内容に触れる前に、本作を見て感じたことを先に述べておきたい。

おかげさまでモンキー的映画のススメっていうこのブログは、沢山の人に読んでもらえてます。

感想の中には自分自身にまつわるエピソードなんかも書いたりしてるから、頻繁に読んでくれてる人には、ある程度俺の「イメージ」が定着してるかもしれない。

 

ある人は「映画たくさん見てて凄い」、「この人の着眼点面白い」、「文章が最高」なんて思ってくれてる人もいるかもしれない。

またある人は「評論家気取りのクソ」とか「文章が下手過ぎて読む気がしない」、「クソ猿」(実際コメントで言われたw)なんて思ってる人もいるかもしれない。

さらには「ネタバレでアクセス稼いでるだけの無能な奴」みたいに、読まずに決めつけてる人もいるだろう。

 

ぶっちゃけその辺に関してはどう思われても良い。

褒めてくれる人には感謝だし、貶す人には努力して認めてもらうしかない。

という一方で、いちいちそこに一喜一憂したくもない。

 

俺がただ書きたくて書いてるだけ、それをネットに挙げて自己表現したいだけ。

もうそれだけなんですわ。

 

そして何か思想が歪んてたとしてモラルが逸脱していたとして、そこを突っつかれてもいちいち弁解とかもしたくない。

別に俺は聖人君主でもないし極悪人でもないし、何かに一貫性もないしとにかく完璧でない未完成の人間だと。

 

ここに記された感想は全て俺の「事実」で、皆が読んだ場合俺という存在は「真実」なわけで、その真実を事実として証明するには、相当な時間を要するわけで、そんな時間の余裕なんてなくて。

 

要は何が言いたいかというと、自分以外の誰かを見るとき、それは一つの真実でしかなく、他の人には見せてない側面がある。

それと同時に、見られた自分は側面でしかないということだと。

そこに歪みだったりズレ、行間や文脈ってのは確実にあって、その「間」だったり「側面」を埋めていく作業って、途方もないわけですよ。

 

もうこの時点で俺がどういう人間なのかって側面しか見えてないですよね。

だってさっきから支離滅裂だし、映画の事なんてひとつも語ってないし、何か一生懸命弁解してるようなことを繰り返していってるだけ。

本来もっと賢ければ理論立てて理屈並べて皆が求める理想的な文を述べられるんでしょうけど、無理ですバカなんでw

 

 

というわけで、本作「落下の解剖学」を見て感じたのは、こういうことなんですよ(どういうことだよw)。

 

え~、1つの事件において被疑者が無罪を証明するのに、事件そのものだけでなく、過去の細部に至るまで全部説明しなくてはならないこと。

そして被疑者を有罪にするために隅から隅まで徹底して人間そのものを炙り出し、隙や矛盾が出来ればそこを徹底して追及する。

 

なんなら、全く関係のないところにまで言及し、それに対してどういう意図でどういう経緯でそうなったかをしっかり答えなくてはならない。

本人だけが知っている事実を証明するのに、無数の真実に対してキチンと返すことができないと、証明されない。

証明されなければ、真実は事実として受け止められ、追求する側の思惑によって事実は捻じ曲げられていくわけです。

 

昨今メディアが賑わせてる大物芸人やサッカー選手のあれだって、当の本人たちにしか説明できないことなのに、さも当の本人が言ってることが切り取られた形で拡散されたり、逆に「そうに違いない」みたいな「印象」を俺たちに植え付けてくる。

その後の裁判で全ては明らかになる一方で、仮に疑われた者たちが勝利をもぎ取ったとしても、全てが報われるわけでもなく、数年以上もその「印象」は我々の脳裏に焼き付けられてしまう。

 

無意識に受け取ってしまった真実は、果たして拭うことはできるのか。

できたとしても、何が残るのか。

 

ホント、事実を証明するってクソめんどくさいんですよっていう映画が「落下の解剖学」だったんじゃねえか、そして俺も変なイメージを打ち消すために事実を証明するのめんどくさいですっていう話を先にしておきたかったというわけで、こっから本編の感想ですw

 

圧巻の2時間半

事件発生から裁判の判決までの1年間を、前後半に分けて2時間半かけてたっぷり会話劇として法廷劇として見せる、セリフのオンパレードな映画。

 

前半は事の真相をこの目で確かめるべく目を見張り、後半の法廷シーンではずっと傍聴席にいる感覚で、この事件の行方を追いながら、気づけば検察側のいやらしい質疑応答に腹が立ち、被疑者とされているサンドラを応援したくなり、そこに自分で勝手にドラマを作り上げ、どうか無罪であってほしいという「願い」が気持ちとなって溢れてくる。

 

もちろんこれはフィクションで本当の話ではないので、そういう見方をしてもいいかもしれないけど、仮に本当の事件だとしてメディアや報道があらゆるすべての事を明かさず一方的な見せ方をしたら、俺たちはこの真相をどう判断すべきかという問いにもなっていた映画だったように思えた作品でした。

 

例えばさ、引っ越しおばさんてネーミングされて毎日のように報道されてたあのニュース、真相を調べていくとTVとは全然違う情報が出てくるじゃないですか。

全く知らない情報を目にしたとき、如何にTVがあの人を悪者扱いして盛り上げて視聴者に印象操作していたかって話ですよ。

 

また痛ましい事故の被害者家族の思いを幾度も取材してニュースで取り上げることで、被害者に同情するようなドラマを作り上げるわけですよメディアは。

その結果加害者に怒りの矛先が自然と向かってしまってるわけですよ。

如何に俺たちがそうした情報によって真実だけで物語って事実を追求しようとしないのか、誰かが誘導した印象で物事を決めつけてるのかって話なわけですよ。

 

だから、気がつけば「願い」になってたっていう俺の感覚は、正直危うい感情なのではないかと。

無意識に偏見で見ていたんじゃないかと。

 

そういうのを自然と炙り出してくれたのが本作だったんじゃないかと。

 

もうね、冒頭の15分がすごいんですよ。

とにかく不快なんですよ。

インタビューしに来た女性の学生がサンドラが書いた小説の質問をしたいのに、サンドラはうまくかわして質問させないんですよ。

現実とフィクションの境目を作らないのはなぜですかって聞きたいのに、はぐらかすサンドラの表情がもうほんと憎たらしく見えるんですね。

しかも夫が大音量で50セントのカバー曲を流しながら屋根裏部屋で作業を始めるわけです。

 

結局それが邪魔になって話の本題に入れず、次回に持ち越すっていう。

これが一体何を意味するのかっていうのが、なんとなくではあるんですが、物語が進むにつれてわかってくるわけですよ。

そしてこの後息子が弾くピアノの曲で物語がいよいよ始まっていくわけですが、このピアノの曲も、どこか高圧的に感じる曲で。

なんというか弾き方が終始フォルテシモで、しかも決して滑らかでなくどこかぎこちなさの残る弾き方で。

メロディラインも不協和音が度々入るような曲で、一体何でこの曲を練習してるんだ息子よ!と少々気が荒くなりましたw

 

事件はすぐさま起こり、息子の発見によってサンドラは外に飛び出し、急いで救急車を呼ぶことに。

後に友人で弁護士がやってきて、状況を把握するためにサンドラにあれこれ質問をしていくシーンへと突入。

この時、サンドラは「もしかしたら自分が殺したと思われるかもしれない」という考えが頭をよぎったので、必要最小限の証言しかしないわけです。

要は自分に都合のいい事しか言わない。

夫が仕事してる時自分の仕事を部屋でしたのち耳栓をして昼寝していたと。

 

この後「わたしはやってない」と打ち明けても、そのことはどうでもいいと。

他の人にどう見られるかが重要だと弁護士に告げられていくんですね。

サンドラはこの時、そこまで喋らなきゃいけないなんて聞いてないと思っていなかったでしょう。

だって、殺してないんだから。

事件の事実と前後だけを正確に事細かく説明すれば早く片付くのだと。

 

ところがどっこい、警察は夫の死体から見つけた外傷や、第一発見者である息子の証言など色々不透明な点がいくつかあることから、事故の線ではなく他殺の線でも事件を捜査、そして起訴をする事態に。

 

そして夫が遺した事件前夜の夫婦げんかの録音記録などから、夫婦仲まで疑いを持ちだし、それが裁判によって「これはどういうことか」と説明しなくてはならない事態にまで発展していくのであります。

 

またかつて夫が自殺未遂をしていたこと、その真相を説明するために主治医まで証言台にあがることになったり、夫の合意(といっても暗黙の了解みたいな感じ)で不倫をしていたこと、冒頭で登場した学生とのやりとりを「ワインを飲んでいた」というだけで誘惑していたのではないかと疑惑をもたれてしまうこと、事件前夜の録音から「相当夫婦仲が悪かったのではないか」と疑われることなど、とにかくありとあらゆる過去をほじくり出され、それが事件に繋がってない、証拠にならない、殺した動機にならないということを証明するため、また検察や傍聴席、裁判員らに疑いを晴らすために全てを洗いざらい話さなければならない、また何が辛いって息子に全部包み隠さず語らなくてはならないという非常に苦しい局面に、サンドラは立たされていくのであります。

 

 

冒頭ではどこか高圧的な面を匂わせるサンドラの表情がありましたが、実際家庭の収入のほとんどを占めてるのはサンドラの稼ぎであり、夫は半ば専業主夫なんですよね。

夫婦喧嘩を再現した映像は、男女逆ですけどいわゆる男性優位な状態だったらどう映ったことでしょうと言ってるかのような立場なんですよね。

女性が養っていて夫が養われてる設定、これが男女逆だと女性が弱い立場に思えるっていう錯覚を持ちすぎてるからか、このシーンがすごく異質なものに見えてくるんですよね。

 

息子の目が見えなくなってしまったのは、自分が送り迎えを怠ったからという自責の念に駆られうつ病を発し、さらには医療費がかさんでフランスへと移住。

息子の面倒をみてるせいで自分は仕事ができないということから、小説ばっかり書いてる妻サンドラに「もっと家事をして欲しい」と。

これに対してサンドラは「別にやるなといってない。好きにやればいい」と。

話は平行線をたどってばかりでどちらも譲らず、過去の浮気を持ち出された代わりに、息子の事故はあなたの責任と、互いの弱いところを突き合って結局感情的鳴ってコップ投げたりやつあたりしたりと、非常に荒れた喧嘩になったわけです。

 

もちろんこれを先にサンドラが言えば、どういう展開になったかわかりませんし、それでもサンドラが不利だったように思えます。

それ以上に、結局イニシアチブを取ってる方は男女関係なく、救いの手を差し伸べるようなことはしないんだなとか、これが逆だったら男側はもっと印象悪くなるんだろうなとか、色々なことを想いました。

 

もう本作は、「今それを出してくるのか!?」という案件もあれば、「え!?それ聞いてないよ!?」っていう新事実を出してくるんですよね。

冒頭の学生が証言台に立つシーンもあれば、サンドラの浮気の過去、バイセクシャルだとか、夫がかつて自殺未遂をしたかもしれないとか、当初の「事故か他殺か」って話がどんどんそれを立証するために「それ関係なくね!?」って案件も話さなくてはならない事態になっていく。

 

でもって、無罪を勝ち取っても、それが報われるわけではないっていう辛さ。

 

タイトル通り、落下したことを解剖していく物語ですけど、これって「偏見を植え付けられた人」=落下した人を解剖していく映画でもあったなぁと。

 

 

最後に

脚本賞を総なめしてるだけあって、さすがの物語でしたね。

もう台詞が濃密で、全部把握するのは無理に等しい情報量。

にもかかわらず、検事を演じた坊主の俳優さんがま~腹立つってくらい神経逆撫でしてくるんですよね~w

サンドラが弁明すれば「それってあなたの主観ですよね?」とかひろゆきみてえなことぬかすから余計に腹立つんですよw

ここまでイラつかせるってなかなかの芝居だと思うんですよねw

もちろんサンドラ役のザンドラ・ヒュラーも多面的に表情で表現してるし、英語とフランス語を使い分けてあれだけのセリフを感情込めて話すってなかなかのレベルですよ。

 

あとはもうスヌープを演じたワンちゃんが素晴らしかったですね。

ちゃんと息子をリードする歩き方や、家に戻るまでをスムーズに歩く姿、アスピリンを大量に飲んでしまい目の焦点が合ってなかったり舌を出して気を失っている姿、さらには嘔吐するシーンまで、どうやって演技指導されたのか理解できないほどリアルな演技でした。

パルムドッグ賞を取ったのも納得の賢いワンちゃんでしたね。

 

正直似たような映画やミステリーは探せばあるんでしょうけど、ここまで「事実を証明することの難解さ」とか「無数の真実が事実を埋もれさせていく」ことを可視化した映画は本作が初なんじゃないかと。

 

正直もう一度見たいかと言われると難しいですが、長尺だからこそ味わえる濃厚な内容でした。

というわけで以上!あざっしたっ!!

満足度☆☆☆☆☆☆☆★★★7/10