mid90s ミッドナインティーズ
「スーパーバッド 童貞ウォーズ」、「21ジャンプストリート」から「マネーボール」、「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」と、コメディ俳優からオスカー俳優
にまで上り詰めたジョナ・ヒルが初の監督に挑んだデビュー作。
自身の半自伝的な10代の思い出を余すことなく詰めたという青春映画になっているということで、俳優としての彼の新たな一面を覗きたい気持ちで鑑賞してまいりました。
あらすじ
部屋に飛び出るやいなや、体の大きな兄イアン(ルーカス・ヘッジズ)にボッコボコにされるスティーヴィー(サニー・スリッチ)。
どうやら兄の部屋に勝手に入ったことが、兄の癪に障り殴られている模様。
胸に大きなあざを作ってしまった体を洗面台で確認している姿の後ろで、どうやら兄と母親が口論している模様。
そりゃマウント取ってまでボッコボコにするんだもの、お母さんに怒られるでしょうに。
これに懲りず、イアンがいない間に再び兄の部屋に侵入するスティーヴィー。
イアンの部屋にはたくさんのCDや、エアジョーダン、キャップにホッケーシャツに、大きなポスターが散りばめられている。
きっとスティーヴィーにとって、兄の所有物、いや兄は憧れの存在なのでしょう。
しかしイアンの誕生日に送ったCDを杜撰に扱われてしまうスティーヴィー。
お前ごときが音楽なんぞ理解できるわけなかろうに。
そんなふてくされた態度を横目で見るしかできないスティーヴィー。
母親のダブニー(キャサリン・ウォーターストン)に至っては、お付き合いしている男性との距離感を子供たちに話すことばかりで、息子たちの話を聞く姿勢が無い様子。
冒頭10分足らずでスティーヴィーがいる世界は、何不自由ない環境にもかかわらず、どこか居心地の悪さを抱えた心境が窺えます。
ふと街を自転車で走っていると、店の前でスケボーをしている少年たちに遭遇。
ところかまわず自由気ままに遊んでいる彼らに心奪われたスティーヴィーは、彼らがいるスケボーショップを覗き、しょうもない会話でじゃれ合う彼らに近づこうと決心。
イアンから愛用のディスクマンと引き換えにスケボーをもらい、一人猛特訓を繰り返しながら、スケボー少年たちの店にちょくちょく顔を出すスティーヴィー。
ある日、店を覗くと誰もいない。
裏口に行くと、少年たちはスケボーに勤しんでいました。
座って眺めていると、グループの最年少であるルーベン(ジオ・ガリシア)が声を掛けます。
また、休憩にやってきた黒人の少年レイ(ナケル・スミス)が飲むはずの水がなく、ルーベンにパシリを頼まれると、スティーヴィーは仲間にしてもらえた喜びとともに、一目散に水を汲みに行きます。
ルーベンからグループ内のイロハを教わるスティーヴィー。
タバコの味を覚え、礼を言うやつはゲイだから一切無用など、不良ってのはこういうスタイルなんだぜ、とあれこれ聞かされては触発されていく。
グループには、スケボーが一番うまいレイ、レイと同じくらいスケボースキルがあるが毎日酔っ払ってはパーティーに明け暮れるファックシット(オーラン・ブレナット)、無口だけど映画監督になりたい夢があるフォースグレード(ライダー・マクラフリン)といった面々がおり、毎日つるんではスケボーに明け暮れていました。
兄の存在に大きく憧れていたスティーヴィーにとって、彼らは兄に変わる大きな存在へと徐々に変化していきます。
ある会話への返しがきっかけで、ニックネーム(すいません、なんて呼ばれてたか忘れましたw)を命名される。
また、ルーベンがチャレンジするも怖気づいた屋根の上にある穴を飛ぶジャンプを、怖いもの知らずでチャレンジし、頭に大けがをしてしまうんだけど、レイとファックシットからその度胸を買われ、年上連中と一気に距離を縮めたことに、スティーヴィーはさらに上機嫌に。
悪友たちとの遊びは、スケボーする楽しさと共にさらにエスカレート。
スケボーキッズが集う公園で、様々な事情を持つ人たちと触れたり、警察に追いかけられる経験。
ファックシットの女友達とのパーティーでは、酒を一丁前に飲み干したり、良い雰囲気になった女性エスティー(アレクサ・デミー)と初体験を済ませるなど、少年から大人への階段を二段三段と飛び越えていき、レイやファックシットから大歓迎されていく。
彼らとの距離を縮める一方で、門限を破ったり、酔っ払った状態で帰宅したり、さらにはファックシットとひと悶着するも手を出せずに立ち去った姿を見てしまったことをきっかけに兄の小粒感を目の当たりにしたスティーヴィーは、兄をバカにする態度をとるなど、家庭内での素行の悪さが目立っていく。
見かねた母親は、レイたちが集う店にスティ―ヴィーを連れていき、うちの子ともうつるまないでと怒鳴り込む。
恥をかかされたと感じたスティーヴィーは、腹の虫が治まらず母親に汚い言葉で罵る始末。
ひとりでスケボーに八つ当たりするスティーヴィーを見たレイは、自分の人生って最悪だけど、みんなとつるんでると如何に自分の人生がまだ自由か思い知らされるんだと語ります。
ルーベンがなぜ母親が寝た後に帰宅するのか。
それは母親から暴行を受けているから。
フォースグレードは、誰より貧乏で靴下を買うお金すらない。
ファックシットは、昔はスケボーに情熱を注いでいたけど、今じゃ努力することに価値が無いと憂い、毎日パーティーすることしか頭にない。
そしてレイは、弟を事故で亡くした過去が。
落ち込んでいた時、ファックシットがスケボーしようぜと誘ってくれた。
それで自分は勇気づけられた。
だから、友達が悲しそうな顔をしている時はスケボーに誘うことが、そいつを救うことなんだ、だからスケボーしに行こうと、落ち込んだスティーヴィーを励まします。
家庭での居心地の悪さを忘れるかのように彼らとつるんでいくスティーヴィー。
しかしルーベンとの確執や、レイとファックシットの価値観の違いなど、グループ内はかつての関係性が徐々に失われていくのですが・・・。
すいません、3分の2くらい語ってしまいました…。
続きはぜひ劇場で。
感想
僕にとっての90年代半ばってのは、本作のようなスケボーやらヒップホップやらロックみたいな生活とは違い、ミスチルから始まりビジュアル系バンド全盛期もあって、映画の「え」の字もない音楽一色の学校生活を送っていたので、正直こういう世界があったのかという印象しか抱くことができませんでした。
しかし、小学生から中学生に上がる辺りの体と心の変化ってのがあったり、門限破って友達と遊んだり、それが楽しすぎて家に帰るのが嫌になったり、親に八つ当たりしたり口答えしたりっていう、ごく普通の反抗期を迎えてた時期もあって、スティーヴィーが抱えるような「居心地の悪さ」や、ちょっとしたことで怒りがこみ上げたりと、何かと不安定な時期だったという点に関してはすごく共感します。
家庭環境の点からスティーヴィーって、すごく肩身の狭い人物だったんじゃないかなと。
言いたいことも言えないポジションてのもあって。
だからレイたちって、正直絡みたくないタイプの奴らだけど、観ていてすごく自由な奴らというか、青春を謳歌しているというか。
で、ああいう奴らとつるんでると、不思議と自分も強大な力とか権力とか手に入れたつもりになって、気持ちが大きくなりがちで、その気分で家に帰るもんだから、あれこれ言われると、つい彼らのマネして一丁前な口を親に向けちゃうんですよね。
親からしたら、こういう連中って自分の子供に悪影響しか与えない奴らって印象しか持たないんですよね。
大体悪友って勉強してないからテストの点数とか悪くて、それを親は親同士のネットワークから情報を得ているもんだから、勉強できない子と遊んでいることを知ると、そんな奴らと遊ぶな、みたいなことを言うんですよ。(あくまでうちの親はそうでした)
他にも、素行の悪い話を親ネットワークから仕入れるわけで。
タバコ吸ってるとか茶髪にしてるとか夜中までふらついてるとか。
ここまでならいいとして、さらにはその子の親がどういう教育してるのか、育て方をしてるのかにまで突っ込んでくる。
で、自分もそこに混ざってそういうことしてることがバレると、説教されるわけで。
何が言いたいかって、親は彼らの一情報でのみ判断してるから、ホントはすげえ情に厚い奴だとか、仲間を大切にする奴だとか、性格の面にまで目を向けてくれないわけです。
良い面を知ってくれたら見方が変わるのになぁ、という思いがありながら、なかなか言葉にできない年ごろから、結局親には「うるせえ!」しか言えず、親には彼らを理解してもらえなかった事実もあって、当時の歯がゆい時期を思い出させてくれた映画でもあったなぁと。
だからクライマックスで描かれる病院でのシーンて、僕が当時親に伝えたかった面が現れててよかったなぁと。
また、僕には兄がいないので、スティーヴィーのような兄という圧力みたいなものはなかったんですが、鑑賞していると圧力はあれど自分の近しい大人という観点から、自分にはもってないモノを持っていることや、力や行動力など憧れないわけないわけで。
だからスティーヴィーがしたように勝手にお兄ちゃんの部屋に入ってちょっとイタズラしたり勝手の私物漁ったりするのも十分理解できるなぁと。
そういう意味では本作は、かつての自分と照らし合わせて共感したり、違いを見つけたりする楽しさがあったように思えます。
映画的な面で言えば、ザラザラした16ミリ映像然り、スタンダードサイズ然り、90年代流行したであろう音楽をできるだけたくさん流す手法だったり、さりげなく小置かれている懐かしいアイテムだったりと、90年代の空気ってのを見事に表現してましたね。
物語の面に関しても、特に大きな波は見当たらない分、さらっとステキなセリフだったり、人種的な面だったり、ワルだけど将来の夢に向かって真面目に見つめる面や、既にどうでもいい、今が楽しけりゃいいみたいな多様なビジョンがあったり、そんな連中とつるんでいくことで、当時暮らしていた人たちが置かれていた環境や社会が透けて見えたり、ちょっとだけ大人の階段を上っていくスティーヴィーや、彼が変わっていくことで、家族が少しづつ理解を示していくといった面など、キャラクターの内面もしっかり見せてくれている。
ジョナ・ヒル監督デビュー作にしては、出来すぎなくらい完成度は高かったように思えます。
最後に
本作はあくまで、年上の人たちとの関わりが自分を大きく変えてくれた、という内容に感じましたが、同い年の友達ってのは出てこないせいで、スティーヴィーってこっちが思ってる以上にひとりぼっちだったのか?とか、学校ってコミュニティはスティーヴィーにとって重要ではなかったのか、彼がおかれた環境や世界ってのは、あのグループだけじゃないはずで、そういう面にまで視野を広げなかったのはどういう意図があったのかとか、どうもリアリティに欠けるというか。
もちろんサイズをコンパクトにしたことは、本作を面白くさせるための判断だということは承知の上で、映画の外側にあるはずの世界も見せてほしかったなぁと感じたのも事実。
また青春映画ってどうしても当時の自分にいかに寄り添っているかによって見方が全然変わってくるジャンルだと思うんですけど、スティーヴィーの置かれた立場ってのには理解を示せるけど、正直スケボーも本作で使われた音楽も全然通ってきてないことや、ここまで非行に走ってなかった過去、年上と全然つるんでこなかった身としては、大きく刺さる部分が少なく。
とはいえ、85分で魅せる技術とジョナ・ヒルの当時への思いを馳せた内容に浸れたことは、十分観る価値があった作品だと思います。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆★★★★★5/10