モンキー的映画のススメ

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主に新作映画について個人の感想、意見を述べた文才のない男の自己満ブログ

映画「ミッドナイトスワン」感想ネタバレあり解説 草彅剛の熱演は素晴らしいが、結末は・・・。

ミッドナイト・スワン

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草彅剛について

草彅君の出演作を見るのはいつ以来だろうか。

下手したら「クソ野郎と美しき世界」という駄作以来かもしれない。

 

元々僕にとってのSMAPは、TVドラマでこそ輝く存在であると認識しているので、正直2時間弱の映画で彼らを評価するのは、映画が好きといえど何か違う気がしてならない。

 

 そんな彼がトランスジェンダーの役を演じるというから、今回ばかりは興味がわいた。

 

あの「一度集中しだしたら途轍もない演技力を爆発させる」草彅剛なのだから、今回はとんでもない芝居を見せてくれるのではないだろうか、と。

 

そもそも彼、というかSMAP全体に関してなんだけど、彼らは「俳優」の顔をするとき、思春期の頃から培ってきたダンスを「瞬時」で覚えるという習慣から、様々な現場での吸収力が他のタレントたちとは群を抜いて違うため、どんなバラエティだ演技だろうが「そつなくこなす」イメージがある。

 

決して下手ではない。

でも、凄まじく上手いわけではない。

要は平均的で60点台の芝居。

 

中居くんにしてもキムタクにしても吾郎ちゃんにしても慎吾ちゃんにしても、芝居のパターンは決まっていて、ドラマや映画の役柄に「ハマるかハマらないか」が良し悪しになりがちな気がする。

 

でもツヨぽん(こういう言い方するの初めてだなw)は、他の4人に比べて特別、いや格別な点がある。

それが、先に書いた「一度集中しだしたら途轍もない演技力を爆発させる」能力だと思う。

 

どんな演者にも「スイッチ」があると思うんですけど、彼の場合「スイッチ」が4段階にも5段階にもなっていて、順に上がっていくのではなく、3から5、果ては1から5という具合に、感情の持っていき方を時に柔軟に時に激しく変化させる芝居をしていると思う。

 

いわば「静と動」の間にいくつもの「動」が存在するということか。

温厚なイメージを持つ彼だからこそ、その意外性にいつも驚かされるのである。

 

普段こういうか分析をしないので、説明の仕方がよくかわってないが、要は「すごい」人だw

 

 

大まかなあらすじ

そして今回鑑賞した「ミッドナイトスワン」の話題に触れていこうと思う。

 

一体どんな内容かというと。

水商売をしている母(水川あさみ)の素行の悪さから児童相談所に目を付けられたことで、主人公である凪沙(草彅剛)の元に、彼女の娘である一果(服部樹咲)が預けられることになる。

 

凪沙はいわゆる「オネエ」だ。

幼少のころからなんで自分だけ海水パンツを履かされるんだろう、私もスクール水着で泳ぎたい、というほど小さいころからトランスジェンダーに悩まされてきた。

そして新宿のニューハーフのショーパブで、バレエダンサーの衣装に身を包み華麗に優雅に踊っていたのだった。

 

親に「女」であることを隠して生活をしていたこともあって、一果はてっきり叔父さんの家に預けられるのだと思っていたが、まさか叔父がこんな姿で生活しているとは予想だにしなかっただろう。

 

子供が嫌いな凪沙と、口を閉ざしたままの一果。

2人の短期間の生活が始まっていく。

 

学校で問題を起こし凪沙に叱られてしまった一果は、学校からの帰り道「バレエ教室」を見つけ、汗を流しながら懸命にレッスンを受ける同級生たちを食い入るように見てしまう。

のぞき見していた一果を見つけたバレエ教室の先生(真飛聖)は彼女を呼び止め、体験でも見学でもいいからまた来て、と誘う。

 

レッスンに参加した一果は、以前踊っていた経験と、手足の長いスタイルの良さから、先生に一目置かれていく存在に。

しかし、東広島から短期間の預かりであることと、預かり先の親族である凪沙の事を考えると、レッスンの費用を払ってもらうのは厳しい。

 

一果と同じ教室に通っていた友人のりん(上野鈴華)の提案で、素人カメラマンらに写真を撮られるという怪しいバイトをすることに。

 

1万円をゲットしたことでレッスン料を払うことができた一果だったが、コンクールの参加料や衣装代など「バレエなんぞ金持ちがするもの」とされる代表的な障害が目の前に押し寄せてきたことで、怪しいバイトの中でもさらに怪しい「個別撮影」をすることに。

 

そこで再び問題が発生し事件を起こしてしまった一果。

バレエをしたいこともレッスンを受けていたことも、さらには怪しいバイトをしていた子も知らなかった凪沙は、子供嫌いな性分を一旦心に押し込み、一果と向き合うことに。

一果は過剰にストレスをため込んだり極度の緊張状態になると、左腕を噛む癖がある。

この時も発狂し、左腕を噛みだしたのだ。

 

女性でありたいのに、生きづらさを日々感じている凪沙は、彼女の異常な行動に対し、ただただ彼女を抱きしめ「強くならないといけん」と慰めるのだった。

 

頬っておけなくなった凪沙は、自分の働く店に連れていき面倒を見ることに。

バレエダンサーの衣装を着て踊る凪沙と同僚だったが、酔っ払った客が踊りの下手さにいちゃもんを付け出し、店内は騒然。

客とスタッフらが揉め合っている中、一果は一人ステージに立ち、バレエを踊るのだった。

 

凪沙は、一果のバレエに対するポテンシャルと可能性、そして何より踊りたいという「意志」を見たことで、これまで性転換手術をするための貯金や、肉体労働の職に転職するなどの環境変化をする覚悟を決める。

 

こうして疑似母娘となった二人は、一果のバレエのために足並みをそろえて過ごしていくのだが…。

 

というのが、大体半分くらいのあらすじです。

 

 

草彅剛の芝居

近年LGBTQに関して描かれる作品が後を絶たないが、配役問題が激化している。

元々黒人の役を白人に変更して映画化する「ホワイトウォッシュ」問題もそうだが、LGBTQを題材にした映画を、何故ノーマルな役者が演じるのか、という批判が相次いでいるのだ。

 

最近一番話題になったのは、ハル・ベリー

「男性になった女性」というトランスジェンダーを演じることを予定していた彼女に、LBGTQのい人たちや団体からの批判が相次いだことで、その役を降板したのである。

www.vogue.co.jp

この問題の論点は、要は彼らのようなマイノリティに「配慮」が足りないということ。

それならLBGTQの人の方が役に適しているとか、ノーマルの人たちに役を奪われている、ということだろう。

 

もちろん彼らに配慮する、というか配慮以前に当たり前のように接することが理想だが、そもそも「役を演じる」のはノーマルだろうが、LGBTQだろうが、僕としてはどちらでもいいと思っている。

自分を晒すのが演技ではないし、与えられた役を「演じる」のだから、セクシャルな部分は関係ないのではいか、と。

 

きっとこういうことを言うと目くじらを立てる人が出てくるのでこれ以上のことは伏せるが、何にしたって「あちらが立てばこちらが立たず」になりがちな昨今のあらゆる議論に参加したくはない。

あくまで一人の「意見」である。

 

まだ日本ではこういう論争に発展していない点において、LGBTQは非常に後進的な国なので、今回草彅剛がトランスジェンダーの役をやることに目くじらを立てている人は少ない様子。

 

 

話はそれたが、今回のツヨぽんの芝居は、安定の芝居だった。

簡潔に言えば、過度なオネエをやってない芝居が、非常にナチュラルで説得力があった。

 

無駄に声色を変えるでもなく地声で発声してるけど、語尾やイントネーションはどこか女性的。

何というか気味悪くならないようにギリギリのねちっこい喋り方をしているというか。

 

仕草や所作もくどくない仕方で、接客で笑う際に両手の指で口角を隠す辺りや、人目につかないように足早に歩く姿、味噌汁を飲む時のお椀の持ち方など、細かい点で過度にならない適した芝居をしている。

 

きっと指導を受けての演技だと思うが、ここまで様になっているとは思いもしなかった。

 

 

また冒頭で語った「一度集中しだしたら途轍もなく演技力を爆発させる」点だが、今回は感情の波のふり幅を大きく出すのではなく、比較的落ち着いた感情のコントロールで芝居をしていたように思える。

 

にもかかわらず、しっかり喜怒哀楽を見せる点も、やっぱりこの人は天才だなぁと思わせてくれる。

 

一果のために転職を決意し、自慢のウィッグを付けず作業着を着て一果の前に現れる凪沙。

頼んでもないのに、勝手なことをするなと、期待を寄せられることにどう気持ちを出したらいいのかわからず癇癪を起こす一果を、ただじっと見つめ「こっちにおいで」と言い、抱擁する姿は、本作の彼のベストシーンだと言いたい。

このシーンは男の格好をしているが、心と気持ちが完全に女性で「母」だった。

なぜかあの時は一果と自分が同化して、自分が抱きしめられてるように感じた。

 

それもこれも草彅剛の演技における包容力の賜物だろう。

 

 

また一果を演じた服部樹咲ちゃんも目を見張るものがあった。

基本的には仏頂面で何を考えてるかわからないような役柄。

喋ることすらも面倒なくらい主張が無く、誰にしても困ってしまうような子を演じていた。

しかし、ぎこちないバレエのレッスンをして以降、彼女がどんどん輝きを増してくる。

友人の臨ちゃんが、彼女と出会うことでどんどん墜ちていくのに対し、彼女が活き活きとしてくるのが非常にわかりやすい演出になっているのだが、それ以前に「踊りたい」という「意志」と、バレエが抜群に巧くなっていく過程、ボサボサの頭をしっかりブラッシングしていたり、身なりを整えていくことで、彼女の輝きの増し方に説得力が出ていた。

 

物語が進むにつれセリフも増えていき、徐々に一果の気持ちがわかりやすくなっていく点も、作品の中で良いスパイスになっていたように思う。

 

実際に4歳の頃からバレエをしていたという経緯から、今回抜擢されたのだろうが、バレエを踊っている時も、他の演者に比べて際立っていたこともあり、こんな子、良く見つけたなぁと感心しました。

 

 

物語の感想

ようやくここから物語の感想に入りますが、簡潔に言うと、予想していたほどの良作ではなかったということをまず言っておきたい。

 

概要としては、トランスジェンダーとして生きていくことの辛さと、大きな夢を持っているにもかかわらず親による劣悪な環境のせいで、翼を羽ばたかせることができずにいる少女との疑似母娘の美しい日常と残酷な現実、といったことろだろうか。

 

 

トランスジェンダーとしての生きづらさという点では、凪沙自身が投薬をしているシーンで露骨に表現されているが、それ以外は正直生きづらいようには見えない。

 

確かに転職先で男なのに力が無いなぁ、と急に急所を握られる件や、お金のために客と寝る行為に抵抗し事件を起こしてしまう件など、マイノリティならではの生きづらさはあったが、もっと生きづらい点を見せなくてはいけなかったような気がする。

 

体は男なのに心は女であることを執拗にいじられる辺りや、トランスジェンダーであることで国から何か保障が受けられないというような生きづらさ。

一応帰省した際に、家族から病気だとかバケモノ扱いされるという描写はあるが、世界が狭すぎる。

もっと見てるこちらが目を塞ぎたくなるような露骨な表現が描かれていても良かったように感じた。

 

捕まえた男がろくでもない男だった、という同僚の瑞貴もまた生きづらさを露呈しているが、それは別にトランスジェンダーだからとは言いにくい設定にも見える。

 

 

また劇中では性転換手術に踏み切れない葛藤も描かれている。

多分、金額面や体をいじる上での伴う痛みが妨げになっていたように捉えたが、結果凪沙が決断した理由は「一果のために体も母になる」ため。

自分のためにではなく、一果のために心も体も女になることを選ぶ。

 

生きづらい生活を送ってきた凪沙が、本当になりたいものを見出していく過程は本作の一番のテーマでもあると思うが、だったら本作で描かれてるような「すれ違い」によって、命を落としていく結末にしなくても良かった気はする。

 

「トランスジェンダーとして生きていくことの辛さと、大きな夢を持っているにもかかわらず親による劣悪な環境のせいで、翼を羽ばたかせることができずにいる少女との疑似母娘の美しい日常と残酷な現実」は、本当の母の出現により歯車を狂わされていくのである。

 

 

情緒不安定だった一果が、凪沙とバレエとの再会により羽ばたいていくが、友人の死によって再び立ち止まってしまう。

そこにタイミングよく現れた母親が連れて帰ることで、凪沙似合う前の家庭環境ではなくなったものの、バレエとは遠ざかり不良とたむろする日常を送っていく。

そこへ無事手術を終えた凪沙が一果を引き取りにやってくる。

しかし母親から引き渡されることはなく、凪沙は東京へ手ぶらで戻る羽目になる。

 

一果は無事中学を卒業し凪沙の元へと旅立つが、凪沙はいわゆる「女でい続けることをサボった」せいで、寝たきり生活になっていた。

 

 

というのが、後半訪れる「すれ違いによる悲劇」なのだが、この「すれ違い」は果たして必要だったのだろうか。

確かに凪沙自身、命をかけて母になるべく女になり、命を落としていく。

最期はきっと悲しみに暮れるよりも幸せに満ちた死だったろう。

しかしトランスジェンダーの生き辛さをこういう形で締めくくるには辛すぎる。

 

希望に満ちたラストにすることが、生きづらい人たちへの後押しになるのではないだろうか。

これじゃあ女に母になりたいと願うトランスジェンダーの人たちは、躊躇してしまうのではないだろうか。

 

物語は、トランスジェンダーの生き辛さだけに特化した話ではないために、疑似母娘になるための自己犠牲、無償の愛を提示したにすぎないのだろうが、ならばどちらかを削ってテーマを一つに絞った方が賢明だったのではないか、とさえ思う。

 

 

最後に

内容以前に、単純に感情の流れを切ってしまうかのようなぶつ切りのシーンが後半目立ってきており、急にタイに行って手術を受けるとか、唐突に訪れる一果の友人の死、また友人の一果への思い、さらには実の母親登場でなぜ帰省する羽目になったのかなど、登場人物が次のステップを踏むにあたっての理由や決断というモノがごっそり抜けていて、頭で汲み取ることも可能なわけだが、感情をつかさどる心はそれを許せず、このような不満が漏れてしまう結果となった。

 

 

物語には、実の母親や、バレエの先生など、一果を母のように見守る存在が多数登場する。

 

どの女性も完ぺきでないからこその偏愛があり、体は男だが心は女の凪沙に、改善したとはいえ娘の本心を全く把握していない実の母親や、他の生徒に目もくれず一果だけに指導を注ぐ先生、またりんの母親(佐藤江梨子)の娘の気持ちを理解できずに価値観を押し付ける溺愛ぶりをみせる姿も、やっぱり偏愛である。

 

じゃあ母とは、女とは、母性とはいったい何なのか。

凪沙のような自己犠牲なのか。

もしかしたらそれ以上のものが描かれてたのかもしれないが、自分はそこまで読み取ることができなかった。

 

やはりマイノリティを描くのならわかりやすい「希望」を見出すような物語にしてほしかった。

 

とはいえ、草彅剛を筆頭に演者の芝居は抜群によく、引き込まれる部分も多々あったために、簡単に本作を低評価にはしたくない。

 

他の鑑賞者の感想を読んで、整理したい気持ちです。

 

あ、渋谷陽一郎のメインテーマ?

ダサい。

 

というわけで以上!あざっしたっ!!

満足度☆☆☆☆☆★★★★★5/10