モンキー的映画のススメ

モンキー的映画のススメ

主に新作映画について個人の感想、意見を述べた文才のない男の自己満ブログ

映画「ボーはおそれている」感想ネタバレあり解説 アリ・アスター監督もアレを恐れてる?

ボーはおそれている

喜劇と悲劇は紙一重、なんて言葉があります。

当事者からしたら悲劇を喜劇と思うのは相当難しいんでしょうが、端から見る者にとっては悲劇が喜劇だったりするわけですよ。

 

バナナの皮で滑って転んでケガをした人にとっては悲劇ですが、それを近くで見ていた人にとっては喜劇になるって話。

 

今回観賞する映画は、そんなコメディ映画の基本のような構造…かどうかは見る人次第な、ある男の里帰りの話。

怪死した母のもとへ帰るだけなのに、なぜか地獄のような出来事が続くという、よくわからない物語。

監督があの人なので、さぞかし不気味でさっぱり理解できないことでしょうw

早速観賞してまいりました!!

 

 

作品情報

ヘレディタリー/継承」、「ミッドサマー」の奇才・アリ・アスター監督が、「ジョーカー」、「ザ・マスター」の怪優ホアキン・フェニックスとタッグを組んだ一作。

 

怪死した母のもとへ向かう怖がりの男性が、行く先々で悪夢のような奇妙で予想外の出来事に遭遇する姿を、意味不明なビジュアルや支離滅裂な展開という予想の斜め上から攻めてくる、全員精神崩壊レベルのスリラーコメディ。

 

過去作2作で世界に認知されたアリ・アスター監督。

「例えるなら、この映画はビデオゲーム。コントローラーが効かず操作不能のため、行き先も選べず狂気の世界を彷徨っていく」と本作を例えた。

 

また彼曰く本作で「ブラックコメディ」という位置づけにもかかわらず、既に観た者からは、現実か妄想かわからない主人公の視点によって、摩訶不思議で不可解で強烈な不安を煽る描写、しかもそれが3時間という長尺でもあることから、ある種のホラーともとれる作品として評価された。

 

主演のホアキン・フェニックスは本作でゴールデン・グローブ賞主演男優賞にノミネートされたり、様々な媒体で絶賛評を浴びている。

他のキャストには、「DUNE/デューン 砂の惑星」、「レディ・バード」のスティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、「ゴーン・ベイビー・ゴーン」、「ブリッジ・オブ・スパイ」のエイミー・ライアン、「プロデューサーズ」のネイサン・レイン、「刑事ジョン・ブック 目撃者」、「ラスト・クリスマス」のパティ・ルポーン、「バッド・チューニング」のパーカー・ポージー、「イングロリアス・バスターズ」、「理想郷」のドゥニ・メノーシェらが、狂気に満ちた世界で色を添えていく。

 

いったい主人公は何をおそれているのか。

恐れ、なのか。

畏れ、なのか。

トラウマ映画の匠が、私たちに再び深いトラウマを与えるかもしれない。

 

 

 

ミッドサマー(吹替版)

ミッドサマー(吹替版)

  • フローレンス・ピュー
Amazon

 

あらすじ

 

ボー(ホアキン・フェニックス)は、いつも不安に怯えている。

 

近所の不良の振る舞いや、うがい薬をちょっと飲んでしまったことなどにビクビクし、悪夢のような日々を過ごしている。

 

ある日母が怪死していると連絡を受けアパートを飛び出すと、世界は激変していた…。

 

なかなか実家にたどり着くことができないボーは、地図に載っていない道を旅しながら、今までの人生が転覆してしまうような体験をする。(週刊文春CINEMAより抜粋)

youtu.be

 

 

感想

悲劇と喜劇は紙一重であると同時に、愛と憎しみも紙一重、ってことか。

あまりにも不条理で理不尽な里帰りの旅は、母親が息子を愛するあまり、息子がただただ苦しめられるだけの話…

しかし、3時間もやる必要ないだろ。

以下、ネタバレします。

 

 

 

 

 

 

 

ざっくりあらすじ

ボーの自宅、看病してくれる裕福な外科医の家、森の中のコミュニティ、そして実家と、大きく4つの舞台に分けて描かれる「里帰り」の物語。

 

冒頭セラピストから「実家へ帰ること」についての深層心理を覗かれたり、タトゥーの男や全裸の男性、ホームレスなどなどスラム街チックな家の周りに脅えながら実家へ帰る支度をしていくボー。

 

とあるアクシデントによって実家に帰ることが困難となったボーだったが、母の怪死によって精神が錯乱。

安定剤を飲もうにも水が出ず、外に出る勇気を振り絞って水を買いに行くも、スラムの人間が家を乗っ取ってしまう始末。

散らかった部屋に戻って風呂に浸かると、今度は天井に人が隠れてるではありませんか。

 

あまりの恐怖に全裸で外へ飛び出したボーは、見事に車に轢かれ、轢いた運転手である外科医の家で静養することに。

 

母の死体はボーが帰ってこないと埋葬できないことから、何とか早く帰りたいボー。

 

しかし、死んだ息子の代わりのような扱いをする外科医の夫婦、そんな両親から愛情を注いでもらえず荒れる娘、死んだ息子と共に戦地で英雄と化すもPTSDで精神を病んでいる男性など、いかにも一癖もふた癖もありそうな連中によって、ボーの里帰りはさらに困難を極めていく。

 

夫婦のボーによるあまりの執着心と、娘の狂った行動によって追いつめられたボーは辛くも家を脱出。

森の中で出会ったコミュニティの人たちと共に、彼らによる舞台を見ることに。

すると女性を愛し3人の息子に恵まれるも悲劇が訪れてしまうという、愛ゆえに苦しい気持ちを抱く、という疑似体験を送る。

それまで知ることのなかった父と出会えたものの、外科医の家から追いかけてきたPTSDの元兵士の襲撃によってコミュニティはめちゃめちゃに。

 

何とか逃れたボーは、ヒッチハイクによって実家に帰省することに成功。

既に葬儀を終えもぬけの殻になっていた実家で、棺に入った母の姿と対面したり、事業化の一面を持つ母の偉大さをまとめたビデオ映像を眺めたりと、改めて母の不在と大きさを知るボー。

 

そこへ一人の女性が訪ねてくる。

それはかつてのクルージングで出会ったエレインという女性。

彼女に好意を抱き、口づけを交わしたりしたものの、その姿を見てた彼女の母親によって引き離されてしまい、それ以来ずっと恋焦がれていた女性と、ついに対面を果たしたのだった。

当時約束した「待っていて」という言葉を鵜呑みにしていたボーだったが、再会したことに喜びを隠せないエレインの手引きによって、ついにSEXをすることになる。

 

心臓を患っていたことや父親の遺伝もあって、ずっと性行為を避けてきたボーは、エレインのあまりの強引な手引きに戸惑いを隠せずにいたが、初めて好きな人と結ばれたこと、そして思いもよらぬ快楽、果ては持病による最悪の事態など起きなかったことに、大きな喜びを感じる。

 

しかしそれを全て母は見ていた。

母は生きていた。死体はそれまでずっと家に尽くしてきたメイドだった。

メイドの意向と、ボーへの不信感が重なり起きた今回の騒動は、全て愛するが故に憎しみへと姿を変えた母親の仕業だった。

 

本当は実家に帰りたくなかったんだろう、手塩にかけて育て、無償で注いだ愛情を、あなたは全部台無しにした、弄んだ、母親を何だと思っているのか。

ボーも薄々勘付いていたものの、まさかの再会でSEXしている姿を見られ、しかも罵倒される。

 

それまで他者との交流を避け、彼女も作らず、愛とは無縁の日々を過ごしていたボーが、里帰りの中で様々な愛することの喜びと苦しみ、それ故に起きてしまう歪な思いなどに触れ、ようやく思い人との性交に成功したにも拘らず、ただただ息子を独占したいが故に憎悪を抱く母親と対峙することになってしまったボー。

 

やがて母親がひた隠してきた「父親にまつわる真実」を目の当たりにするボーは、母親に縋りついて「ごめんなさい」を連呼する。

ついには母親の首を絞めてしまいショックによって殺害してしまう。

 

一人ボートに乗って向かった先は、コロシアムのような場所。

そこでボーの母親への「罪の意識」の審議が行われる。

母親が受け取ったボーからの仕打ちは、ボーからすればすべて誤解で片付く者ばかりだが、それでも許されることはなく、ボーの乗っていた船は沈没。

ボーの結末は、母親の愛憎によって悲劇的な最期を迎える形となっていくのでした。

 

・・・というのが、本作ののざっくりしたあらすじです。

 

3時間は長いって。

こうしてあらすじを書いてみると、結局本作は、息子を独占したいがために愛が憎しみに変わってしまった母親によって、息子であるボーがひたすら苦しめられていくという物語でした。

 

その一方で、母の死の一報によって外の世界へ足を向ける決心をし、愛をこじらせた者たちや愛に真っすぐな人たちと出会うことで、愛とは何かを感覚で捉えていくわけです。

 

しかしながら、母親の独占的な愛情と陰謀によって、母親以外からの愛を知ることなく性的な事すらも遠ざけられていたことが発覚する後半のシーンから、ただただ毒親のせいで酷い目に遭う息子が不憫で仕方ありませんでした。

 

これは母親から生まれた息子という共通点から出る気持ちでありますが、例え他の女の子と仲よくしようが、母親の言うことを聞かず反抗しようが、やっぱりそれが「愛ゆえなの」と言われましても、息子といたしましては非常に迷惑な話なわけですよ。

おいババア、さっさと子離れしろやボケ!と叫びたくなるわけです。

 

これがまだ10代ならまだしも、ボーは既に40を超えたおっさんであるわけで、まだ母親からの独占的な愛に縛られている=おそれているとなると、そりゃ可哀想で仕方ないといいますか。

そもそもボー自体母親を心底憎む存在ではないわけですけど、やっぱりどこか恐れてしまっている点からすると、思春期に与えられたトラウマはさぞ大きかったんだろうなと。

 

非常に怖がりな性格のボーでしたけど、そうしたトラウマがなければ、スラム街の人間にも脅えることなく接していられたろうし、戦死した兄への思いが強すぎてかまってもらえない外科医の娘にもケア出来たんじゃないだろうか、森の中の舞台で疑似体験したように、別の世界線が待っていたのではないか、タラレバばかりですがボーにも明るい未来が待っていたのではないかとすら思えて仕方ありません。

 

ミッドサマーではある種のハッピーエンドとも取れる結末でしたけど、本作はもう救いようのないラストと言いますか、こんなに長い時間里帰りを見せられてそんな最期とか勘弁してよ!と思いたくなる物語でしたね。

 

 

しかし今回のアリ・アスター監督の作品は、もう見てるこっちの気持ちなどお構いなしでわけわかんない世界でしたね。

住んでるアパートの周辺が、スラム街ではなく、ただ治安の悪い状態の街になってるのが、既に疑ってみてた節がありまして。

全裸の割礼した男性が刃物振り回して逃走中とか、フードトラックで買ったミネストローネが熱すぎてブチ切れる男とか、光GENJIみたいな髪型の半裸で短パンの男性がひたすら踊ってたりとか、「スーサイドスクワッド」に出てきたエル・ディアブロみたいな全身タトゥーの男がいきなり追いかけてくるとか、ほんとに存在するのかよ!と。

 

だから当初は「ボーにしか見えてない世界」なのかなと思って見てたわけですよ。

一応怖がりだから目に見える全てのモノが「怖く」見えるというか。

音出してないのに「騒音うるさい」と置手紙されるのも、夢の中だったりするのかなと。

でも、カバンと鍵はちゃんと盗まれてるし、外の連中が家を占拠して散らかしてるのも事実なわけで、一体何がホントでなのが妄想なのかホントわからない。

 

ちゃんと妄想だったのは「舞台」のシーンだけだったのかな。

いやぁ、あのPTSDのあいつも夢であってほしいなw

 

 

しかしホアキン・フェニックスは真顔だけで何パターンの喜怒哀楽を表現できるのか。

その前後があって受け取れる表情だけど、だからと言って真顔なだけで「今どんな気持ちなのか?」を見せられる俳優ってそうそういないんじゃないのかと。

それだけでなく、様々なアクシデントで様々な驚きを見せるし、見ていて全く飽きません。

 

ただ飽きないのは彼の芝居だけで、それ以外は正直飽きます。

やはりこの「母親の歪んだ愛情によってこじらせる息子」という話を、こんなにダラダラとホラーなのかコメディなのかはっきりしない線引きで見せていくって、俺にとっては苦痛でしかなかったですよ。

 

そりゃ幾度か「フフフ」となった瞬間はあったものの、基本的には喜劇でなく悲劇としてしか受け止められなかったし、尚且つそれがホラーという受け取り方もできなかったわけで、結局何を見せられてるんだ俺は、と。

 

特に疑似体験と化していく「舞台」でのシーンは、場内に霧状の睡眠導入剤でも撒かれてるんじゃないか?ってくらいに眠気を襲ってくる退屈さで、正直あそこ具体的な内容は全然頭に入ってませんw

舞台を4つでなく3つにしか方がまだダレることなく見せられたのかなとも思いました。

いや、せめてあの森のシーンはもっと端折って良かった。

 

他にも部分的な緩急はあったわけですよ。

それこそ舞台が突如PTSDの元兵士の爆破による襲撃によって中断されるとか。

ただ基本的なテンポやスピード感てのは一定でして、変な話ハリウッド的な作り方なら職人監督が編集でうまく処理できそうな内容だなと思えて仕方なかったわけです。

 

ただそうやって物語を見せるのがアリ・アスターという人の作家性出会って、A24の映画の見せ方なんだろうという理解はあるわけで、そこと俺がどう折り合いをつけて楽しむかに尽きるんですけど。

 

A24が苦手な故に

でも正直A24の看板監督なわけですよ、アリ・アスターって。

そんな監督に「好き勝手やらせる」製作会社が辿った結果が、大赤字なわけじゃないですか。

本作は北米ではめちゃめちゃ大赤字らしいんですけど、それ以外の作品もA24は業績がうまくいってないらしいんですね。

一応2023年はハリウッドでは大変大きなストライキがあったわけで、何とか決着はついたモノの、今後のラインナップや経済的な面においても大打撃を与えた出来事だったわけですよ。

でもA24は拠点がニューヨークだから、ストライキの影響で仕事の出来ない俳優にもキャスティング出来たり撮影も観光出来たりと、場所柄大きな影響は受けてないわけですよ。

にもかかわらず、興行がうまくいってないと。

 

それもこれも全てプロデューサーファーストで製作されてないかららしいんですよ。

要は作品における調整役、および見極められる第3者が介入されてないと。

そうなったらアリ・アスターみたいにやりたいように作りましたって世に出されちゃうわけですよ。

それって監督にとってはやりがいあるかもですけど、会社としてはそれでいいのかと。

Netflix映画でもそういう部分が見て取れますけど、中身と結果がしっかり伴わないと今後やりたいこと出来なくなりますよ監督?A24と。

 

個人的にA24製作の映画が苦手な僕なんですけど、苦手である理由ってのが本作を見て改めて感じましたね。

やはりハリウッドでないアメリカ映画ってのが一番の理由なんでしょうか。

 

もちろんこうした期待の若手をちゃんと育て、若者を中心にターゲットを絞ってマーケティングし、SNSを駆使したプロモーションを展開しながらちょっとずつムーブメントを作っていくという彼らの戦略は、正に今だから通用するやり方で、多様な人種が集まって作り上げてる社会だからこそ、マジョリティではない部分にフォーカスをあてている姿勢ってのも素晴らしいと思います。

 

ただ一方で、その「型」みたいなものが、数字という意味でどういう結果を招いているかって話なわけですよ。

難しいと思うんですけど、そこはやっぱり舵を切って修正していかなきゃいけないんじゃないかと。

 

 

最後に

映画と全然関係ない話になってしまいましたが、本作では監督の過去作が垣間見える舞台が登場しましたよね。

そういう意味で本作は監督自身の「里帰り」の作品でもあったのではないかと思うんです。

なので、僕としてはこの映画は「監督とお母さんの間にも愛にまつわる不和があったのではないか」と勘ぐってしまう映画でもありました。

 

そうなってくると、この映画は昨今トレンド化している「監督による半自伝的映画」にも変換できる作品だったんじゃないかなと。

インタビューとか読んでないんでその辺はよくわかりませんが、どうもそういう気がしてならないんですよね。

監督も母親の独占的な愛情によって人生観とか歪められたりしてんのかなとかw

 

まぁ考え過ぎかもですけど、個人的には映画としての評価は高くないけど、ボーの気持ちは痛いほど理解できる作品でした。

というわけで以上!あざっしたっ!!

満足度☆☆☆☆☆★★★★★5/10