哀れなるものたち
もはやアカデミー賞常連となったヨルゴス・ランティモス監督。
初めて出会ったのは、子孫を残すことが義務付けられた時代を舞台に、パートナーを見つけられなければ動物にされてしまう厳しいルールに翻弄される者たちを描いた「ロブスター」でした。
すこぶる笑った後に押し寄せる不気味でブラックな感覚が病みつきになった後、今度はある少年が家に来たら子供たちの体が不自由になってしまう「聖なる鹿殺し」という、これまた不快度MAXでさっぱり意味が分からない話に翻弄されました。
その後製作された「女王陛下のお気に入り」でも女王を奪い合う女同士の攻防を可笑しみを込めて描かれており、ロブスターの時のようなブラックな笑いが詰め込まれた映画でした。
そんなコメディなのにどこか居心地の悪さを抱かせるランティモスが次に選んだのが、この「哀れなるものたち」という映画。
なんでも、脳を移植して生き返った若い女性が、冒険の旅に出るというお話だそう。
天才外科医による倫理を超越したこの手術、もはやブラックジャックで、主人公はピノコじゃねえかよアッチョンブリケってわけで、本作で監督はどんなふうに笑わせてくれるのか非常に楽しみであります。
というわけで早速観賞してまいりました!!
作品情報
スコットランドの作家、アラスター・グレイ著の傑作ゴシック奇譚『哀れなるものたち』を、「女王陛下のお気に入り」のヨルゴス・ランテイモス監督が「女性の自由」をテーマに、驚きの世界観で描いた。
風変わりな天才外科医の手によって生き返った主人公の女性が、そのどん欲なまでの好奇心によって大冒険の旅に繰り出す姿を、斬新で独特な映像によって見せていく。
第80回ベネチア国際映画祭にて最高賞の金獅子賞を受賞、第81 回ゴールデングローブ賞では、ミュージカル・コメディ部門の作品賞に輝いたほか、エマ・ストーンが主演女優賞を受賞するなど、アカデミー賞作品賞の候補として注目を集めている。
本作の主演には、「女王陛下のお気に入り」でも出演したエマ・ストーンが再び抜擢され、本作ではプロデューサーとしても参加した。
体は大人ながら知能は胎児そのものである主人公を見事に体現。
他にも、主人公を作り上げた天才外科医を、「スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム」のウィレム・デフォー、冒険の道中で出会う弁護士を、「スポットライト 世紀のスクープ」のマーク・ラファロが演じる。
赤ん坊の脳と大人の体で蘇生したことで、全てを探求する欲に掻き立てられた女性は、行き着いた先で何を見出すのか。
エマ・ストーンによる魂の演技を、とくと見よ!
あらすじ
不幸な若い女性ベラ(エマ・ストーン)は自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)によって“彼女が身ごもっていた胎児”の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。
「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)に誘われて大陸横断の旅に出る。
大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。(映画.comより抜粋)
感想
#哀れなるものたち 観賞。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) January 19, 2024
ランティモス流「女性の自由の解放」。
良識ある社会が女性に何を与え、何を制御してきたのかを映し出す。あまりにぶっ飛んだ内容や描写や言動に、寛容になれない箇所もあり非常に複雑。
というかランティモスの中では久々にワクワクできなかった。 pic.twitter.com/NBwQEvIfbe
良識ある社会=自分を不自由にさせる場所で、自由を求める女性の姿。
性に奔放で良いし、誰かに縛られる必要もない。
思うがままでいいという強いメッセージと、男性優位への痛烈なパンチ。
以下、ネタバレします。
フェミニズムはここまで来た。
#Metoo運動によって活発に製作されてきたフェミニズム映画。
時代的には前進したモノの、未だ改善すべき点は多く、決して女性が自由に謳歌できる社会は訪れてはいないわけです。
その最たる理由は未だふんぞり返って優位に立つ「男」であり、女性をモノ扱いする「男」であり、力でねじ伏せる「男」であり、それらを優先する「社会」であると。
こんな社会の中で窮屈に生きなくてはならないのなら、いっそのことすべて忘れ、頭空っぽの状態で大人の体のまま、やりたい放題やってしまえばいいじゃないか、そんな映画がこの「哀れなるものたち」だったのではないでしょうか。
哀れなるものたちとは一体誰なのか。
それはもう完全に男の事だと思うんですけど、正に主人公ベラの前で男がだらしないったらありゃしないわけです。
ベラがこうしたいと言えばそれを抑制する男たち。
なぜいけないのか、知能が子供だから適当なごまかしではぐらかすわけです。
でも驚くほど速く知識を吸収し大人へと成長していくベラは、それを突破していくってのが本作の面白い所です。
かつて「アルジャーノンに花束を」なんて本がありましたね。
知的障害を持つ少年が手術によって高度な知能を得るモノの、知りたくなかったことを知ってしまったり、知能と心のバランスが保てなかったり、終いには他人を見下すような人になってしまうという。
そんな苦悩の日々の中、自分の末路を知ってしまうという非常に涙を誘うお話。
本作はどこかアルジャーノンを彷彿とさせながらも、それとは違う未来を見せていったのが印象的でした。
人為的に蘇生されたベラが、家という小さな世界から大きな世界へと羽ばたく中で、様々なモノやことを覚え経験していく。
性の悦びを知り、美味しい食べ物を知り、礼儀や作法を知り、ルールを知っていく。
ただその決まりごとを、なぜ守らなくてはならないのか、なぜ自分は言われた通りにしなければならないのか。
人間にはこんな一面があり、それに対して自分はどう対処するのか、衝突した際に対処すべきこと改善すべきことは何か、などなど、ありとあらゆることを経験し、学び、自身で答えを導いていくのです。
しかしまぁ何と言いますか、本作の世界での倫理だったり道徳のようなものが破たんしてまして。
それはダメだろ!みたいな「ルール」だったり「規律」だったり「秩序」みたいなものが通用しないんですよ、特にベラと彼女を作り上げたゴッドウィン博士には。
これがまぁどこかリトマス試験紙になってるというか、如何に自分自身が「ルール」とか、「世間が勝手に作り上げた常識」みたいなものに捉われてるかって所に繋がって、それのせいで本作自体、もしくは本作でのイチ描写に「寛容」か「不寛容」となるかみたいな、非常にジャッジする部分が人それぞれになる映画だったんじゃないのかなぁと。
あくまでこれはフィクションであり、世界観的にもどこか寓話的な世界で、全てを真に受けることは一切ない物語なんだけど、それでも一線はあるわけで、そこを越えてくるかどうかみたいな、ホントギリギリのラインを渡り歩いてるような映画だったんじゃないかなと。
大体ですよ、川に身を投げた女性が、死にたてほやほやで、彼女を使って長年の研究を促進するための実験体として使おうではないか、しかもお腹の中には胎児がいて、その胎児の脳を移植して、体は本来のままだけど頭は赤ん坊そのもの、そんなクローン以上のヤバい実験をやるっていうね。
どこから来てなぜ身を投げたのか、そんな素性の知らない女性を使った人体実験。
人権とか生死への倫理感とか、そんなものありません。
疑問を抱く者はいても、反対する者は誰一人いないこのイカれた設定。
もうここで、我々の常識を超えてくるし、揺るがしていくのであります。
生まれたてのベラは、言語はおろか、食事の仕方や排便処理すらもままならない、正に赤ん坊でした。
一応家政婦兼博士の助手みたいな女性はいるんですけど、彼女が母親代わりのようには見えず。
あくまで相手としての対応しかしないんですよね。
こんなことをして一体科学として何の役に立つのか。
誰もそんな指摘をせずひっそり自分の研究に没頭するゴッドウィン博士もまた、普通の人間のように育ててもらってこなかった過去があったんですね。
それはもう虐待としか思えないような「実験」であり、つぎはぎだらけの顔がその辛さを物語ってるわけで、その反動ではないとは思うんですが、親譲りの飽くなき好奇心とでもいいますか、親子そろってこんなことをしてしまってるわけです。
とある日、徐に生気をいじり出したベラは、女性しか味わえない「しあわせ」を手に入れます。
夢中になって食事中に食材を使っていじり出すという非常にはしたない行動に出たり、家政婦の局部を勝手に触ったりなど、明らかに非常識な行動に出るのです。
笑ってしまうところですが、僕はさすがにこれはダメだろうとうつむきました。
この時ベラがどれくらいの年齢に達したのかわかりませんが、いわゆる性徴期に行く前の、もっと違う興味の段階があってもいいのに、そこをすっ飛ばしてここを描くという点がどうも受け入れられなかったのです。
物語はこれをきっかけに、性的欲求から知的欲求、外の世界への探求へという冒険心に駆られていくのですが、性への好奇心てのは外の世界に出てからでも描写の順序として遅くはないのではないかと。
何というか監督の性癖じみた部分にも思えてきて、気味の悪さを感じたのです。
テーマ的にもそうした奔放な性の欲求は一つあったと思うので、スル―することはおかしいのですが、見せ方が個人的には不快でした。
最高のクソ野郎マーク・ラファロ
やがてベラは、彼女を世話をしていた見習の医者マックスと結婚を約束。
しかし世界を見たい欲求に駆られ、結婚誓約書を持ってきた弁護士のダンカンと駆け落ちするのであります。
親代わりであるゴッドウィン博士公認という変な駆け落ちですが、要はとうとう狭い家の中だけでは収まらない人間になったわけで、いわゆる「かわいい子には旅をさせろ」的な展開なのかと。
リスボンやアレクサンドリア、パリなどを航海しながら、空の青さ、海の青さ、タルトの巧さ、オイスターからのシャンパンなど、ダンカンの金を使っての贅沢な旅行生活を満喫していくのであります。
もちろん性に奔放なベラは、毎晩ダンカンと「熱烈ジャンプ」なる性交をし、社交界デビューするも、結局はゴッド博士と同じで「それはだめ、こうしなさい」という社会のルールを押し付けられるのであります。
最初こそ、鳥かごから放ってあげた金持ちの王子様的キャラだったダンカンですが、結局はベラをモノ扱いし、自分の支配下に置きたいタイプの典型的な男だったんですね。
ただ本作で面白いのは、あまりに奔放過ぎる故怒りを露わにするけど、結局ベラにぞっこんだというダサさw
リスボンでは勝手に外をうろついた結果、内腿にタトゥーを掘ってもらったのち、欲求を解消してもらうためにお口でしてもらったというベラの暴露に、怒りを通り越してバーカウンターのテーブルに頭を思いっきり叩きつけるダンカンのシーンがありましたが、マジでぶつけてるんじゃないかというほどの勢いと、その衝動がダンカンの奔放なベラへの嫉妬として一番現れていたシーンだったように思えます。
というか、爆笑モノですよあれはw
他にもどこにも行かせないために箱の中に閉じ込めて監禁し、クルーズ船の中に移動させたり、船内で出会った老婆から読書を教わったことで、自分を優先してくれなくなったベラをなんとか制御するために、老婆を船から突き落とそうとしたりと、とにかく卑しい奴へと変貌を遂げていきます。
まぁこういう奴いるよねっていう典型的なタイプの男性で、女性を男の言うとおりにさせたい、平等ではなくあくまで所有物として性のはけ口として、自分の周囲に飾りたいだけ、といったような扱いしかしないんですよね。
だから自分の支配下から外れたり、勝手なことをされたり、何なら別の相手とセックスするだけで、別に婚姻関係でもないのに「ふしだらだ」とか「汚れた女」とか暴言を吐いたり、時には力でねじ伏せようとするわけです。
船内で出会った男性から、あまりにも希望に満ち溢れているベラに現実を突きつけようといたずら心で見せた「貧富の差」は、感受性豊かなベラの心をえぐります。
結果、ダンカンがカジノで稼いだ金はもちろん口座の金まで全部、彼らに渡すと豪語し、ダンカンが酔いつぶれてるところを見計らって船のスタッフに預けちゃうんですね。
もちろん船のスタッフが根こそぎ奪ったと思うので、貧しい人たちには与えられなかったと思いますが、これを知ったダンカンの落ち込み具合はさすがに同情。
いや確かにさ、自分がこれだけ放浪できるのは、自分をモノ扱いしかしないけどダンカンのおかげであって、ようやく外の世界で希望に満ち溢れてる中現実を知った時の落差ったら、幾ら感受性が乏しくても痛烈なモノがあるわけで、だからと言って衝動で人の金を渡すって、どこの金持ちの発想だよとw
ベラの気持ちは痛いほど悪し、彼女がまだ子供並みの年齢と知能ならそういう行動をとってもおかしくないのだけど、もうこの時点で色々知能が発達していてアイデンティティみたいなもんが確立しかけてる状態でのこの浅はかな行動は、俺的にはさすがにダンカンに同情で笑えんよと。
この後パリで降ろされて、一文無しのまま落胆するダンカンに対してベラはどこかあっけらかん。
やはり下に墜ちたことがないからなのか、この状態でもどこか楽しもうという気概があったり、何かにと大して見ようという空気を纏っており、自分のせいで降りる羽目になったことへの申し訳なさとかほぼないのよねw
自分も改善すべき点があるとか、自己分析で済ませて、博士からもらっていた緊急資金を渡して「これで帰って」って、そりゃねえよww
やがて娼館で性欲求も金欲求もゲットできるという利点に気付いたベラは、ダンカンそっちのけで没頭。
しかし男性が選ぶというシステムが腑に落ちないながらもシステムを覆すようなことはできず。
ただどうやって男性にも楽しんでもらえるかという、その場の状況を独自で変える思考を、いつの間にか身に付けていたのでした。
一方ゴッド博士は、可愛い子に旅をさせた結果、ただの実験体だったはずのベラに感情を抱いており、あまりの淋しさに夜ごとポートワインで淋しさを紛らわせたあげく、別の実験体まで用意して気を紛らわそうとしていたのです。
そんな彼の体内に腫瘍が見つかったことで、ベラは帰還。
マックスと結婚をすることになるも、ベラになる前の自分(ヴィトリアだったか?)のフィアンセが登場。
彼との生活を選んだベラに、更なる試練がやってくるのですが・・・。
最後に
何度も言ってますが、いわゆる女性賛歌というタイプの映画で、楽しく鑑賞できることは言うまでもないし、賞レースにもメインどころでノミネートするでしょう。
しかし、カメラワークが「女王陛下のお気に入り」から進化してない点や、ぶつ切りでエピソードを繋げる構成、それでいて長尺、それ以上に果たして「子供の脳を移植したところでベラのような道を辿ることができるのか」という不満や疑問がよぎりました。
親と子の物語でもあると思うんです。
そう考えた時に、もちろん色んな常識にとらわれず冒険心で世の中を知って良き、性や生の喜びを感じていく部分が大いに理解できますが、やはり大人が導かなくてはいけない点もあるわけで、彼女にとってのメンターのような存在って物語にもっと必要だったのではないかと。
自分で切り開いてるわりには、ダンカンをステップ台にしてるとも思ってしまうし、どうもその辺がしっくりこないのです。
またこれまでのランティモス作品の中で、ヒリヒリした感覚が一番薄れているようにも思えました。
これまでなら、「この後どうなってしまうのか」とか「選択できないような選択肢をこちらに与える」ような、散々笑わせておきながらこっちをめっちゃ困らせるような皮肉を見せつけるわけですよ。
終わり方が前作と何ら変わらない点も個人的にはマイナスで、テーマ性は買うけど、映画の作劇という点では、描写含め好みではないし、巧さも感じなかったですね。
もっと手際よく見せても良かったと思うんですけど。
なんていうか、ほんとにあそこまで性描写って必要だった?って僕の評価の中で結構でかいんですよね。
いらんでしょぶっちゃけ。
とはいっても、エマ・ストーンの演技は評価しても良いですかね。体を張ったという点でも。幼少期の当たりとか表情良かったもんな。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆★★★★★5/10