ケイコ 目を澄ませて
「百円の恋」、「あゝ荒野」、「アンダードッグ」、「BLUE/ブルー」など日本のボクシング映画に、新たな1ページを刻むかもしれない作品の登場です。
青とオレンジの光が交差しながら男女3人のモラトリアムともいえる日々を瑞々しく描いた「きみの鳥はうたえる」の三宅監督が描くボクシング映画ということで、いわゆる一般的なボクシング映画とは一線を画しそうな予感です。
きっと熱くなると思うんですが、多分スポーツものの熱さとは違う気がするというか。
もっと人間にフォーカスを当てた熱さが漂ってそうな予感です。
また「目を澄ませて」ってサブタイトルがいいですよね。
聴覚障害の人が主人公なので、耳ではなく視覚を研ぎ澄ませてってことですよね。
果たしてどんな物語なのか。早速観賞してまいりました!
作品情報
終わりの予感を感じながらも男女3人が青春の日々を過ごした姿を描いた「きみの鳥はうたえる」で注目を浴びた三宅唱監督が、聴覚障害と向き合いながら実際にプロボクサーとしてリングに立った小笠原恵子さんをモデルに、彼女から着想を得て生まれた作品。
聴覚障害を持ち、愛想笑いが嫌いで嘘がつけない不器用な性格の主人公が、ゴングの音もレフリーの指示も聞こえない中でプロボクサーとして闘う姿を、秀でた才能を持つ主人公としてでなく、様々な感情に揺り動かされながら確実な一歩を進める等身大の一人の女性として描く。
主演には、「愛がなんだ」を皮切りに「空に住む」、「神は見返りを求める」などで女優として頭角を現してきた岸井ゆきのが、聴覚障害とボクサーという難役に挑戦。
3カ月に及ぶ厳しいトレーニングによって新たな境地を見せる。
他にもジムの会長役を、「グッバイ・クルエル・ワールド」の三浦友和、「母性」の三浦誠己、「BLUE/ブルー」やボクシングトレーナーとしても活躍する松浦慎一郎らが脇を固める。
耳の聞こえない彼女が抱える心の雑音から街を漂う匂いに至るまで、16㎜フィルムでしっかり焼き付け、観る者の心をつかんで離さない。
逃げ出したくない、でも、あきらめたくない。
目を澄ませたケイコの心に宿ったものとは。
あらすじ
嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコ(岸井ゆきの)は、生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえない。
再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。
母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。
「一度、お休みしたいです。」と書き留めた会長(三浦友和)宛の手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動きだす—(HPより抜粋)
感想
#ケイコ目を澄ませて 観賞。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) 2022年12月16日
音と光。リズムと感情。雑踏と心の揺れ。
コロナ禍で生きる女性聾者ボクサーが目を澄ませて見る景色に感涙。
続けていくことは時に苦しいけど美しいと思うんだ。 pic.twitter.com/3Eq8WjwHQt
言語化するのが難しい・・・
ストーリーはいたって単純だが目を澄ませてディテールを見ていくと明らかに感じる彼女の心情、世界、社会。
これらを16㎜フィルムで焼き付けることで我々の住む世界がこんなにもうるさくて美しいのか。
良質な作品でした。
以下、ネタバレします。
ここにいること
生まれながらにして聾者の女性がプロボクサーとして生きる姿を描く本作。
内容に至っては正直ネタバレもくそもなく、プロとしてこのまま続けていこうとするけど、家族やジムのいざこざのせいで、続けることに迷いが生じてく。
そこから彼女は何に気付き一歩踏み出すかというモノ。
こうやって簡略化しちゃうと大した映画じゃなくね?よくある映画じゃね?なんて思うが中身はもっと実がぎっしり詰まった食材だったと思う。
映像に関しては16㎜フィルムを使うことで、街灯に映る雪化粧や、光が差し込むジムで舞うほこりが舞い散り、高架下の河川敷にケイコが佇めば、温かみのあるオレンジ色の夕陽が表情を覆う。
そんなカメラが彼女を通じて、コロナ禍の東京を記録めいて映すのも貴重。
皆がマスクをしながら不要不急の外出を控えての生活を余儀なくされた2020年から2021年の東京の中で、ケイコもまたボクシングを続けながら日々を生きていく姿を、ロングショットで捉えることでより「社会の中の一人」であることを強調させ、我々に伝えていく。
耳が聞こえようが聞こえなかろうが、社会で生きる人はは未だ障がいを持つ人たちには不寛容だというのが「音のデカさ」によって表現されているのも秀逸。
そんな雑踏の中でも全く聞こえないケイコは、このうるさい東京で何を思い何を感じ、何を見つめているのかを、我々は「目を澄ませて」見ることになる。
いわゆる劇伴がほとんどない。
我々が普段出す生活音が劇伴を担っていることもあり、劇中は妙な緊張感が存在する。
これが眠気を誘うか否かは見る人のコンディション次第かもしれないが、僕自身かなり集中力を高める効果を発揮しており、見終わった後はこうした演出も手伝ってかなりの疲労感を感じた(もちろん静かな高揚感も)。
その中で最も印象に残るのが「リズム感を生み出す音」。
ケイコがトレーナーとのコンビネーションミットを始めるや否や、乾いた音が心地よいリズムで響き渡る。
アダージョからアレグロへと加速していくリズムによって、まるで聴者と聾者の心がシンクロしたかのような錯覚に陥る。
実はこれこそが社会が目指すべき場所なんじゃないのかと言われてるかのように。
このコンビネーションミットが最初と最後のシーンに使われるが、ケイコの表情はまるで違う。
目を澄ませてみることでケイコの変化を感じられたことが嬉しくなった。
音で言えば、ケイコは物を置くときは容赦なく置く。
聴者ならば大きな音を立てないような配慮をすることが可能だが、聾者はそれができない。
というか常態化されてないというのが正しいのか。
また台所の蛇口を止めるのを忘れてしまい、台所を水浸しにしてしまうシーンもある。
これも水が出っ放しなことに気付ける聴者と聾者の違いをちゃんと可視化したシーンだったように思う。
そういう意味でいえば、本作では聴者には何を話してるのかわからないシーンも存在する。
温かな木漏れ日を浴びたリバーサイドダイナーで友人と談笑するケイコのシーンは、一切手話での字幕が出ない。
それは我々がたまに遭遇する風景だが、普段は全く気にすることはない。
しかし映画となると何を話してるのかものすごく気になる。
でもそれは聾者から見る我々の会話と同じことに過ぎない。
本作はそうした風景をただ普通に見せる。
そこに何か説教じみた演出はしない。
よくある風景として描くことで、我々に目を澄ませて見せるきっかけを与えたのかもしれない。
音がうるさい世界で耳の不自由な人が普通に暮らす姿を映し出すことで、こうした様々な気づきを与えてくれる作品だとも感じたわけです。
と、同じように音が大きいとか敢えて字幕を出さないことで、我々聴者が入り込めない、もしくは入る余地のない部分を強調しているようにも思え、本作はそれを「目を澄ませて」見ることで想像させることを演出していたのではないかと。
また、この映画はボクシングを題材にしておきながら、いわゆる直接的な熱のこもったボクサーの成長の記録ではないのがまた斬新。
ボクシングはあくまでケイコを表現するうえでのツールでしかないんですよね。
試合のシーンに至ってはこれといったエキサイトするような演出は皆無で、カメラはただただ耳の聞こえないという不利な状況でがむしゃらに拳をぶつけるケイコの姿しか追わないので。
だからごく一般的なボクシング映画を求めていくと肩透かしを食らうんですが、そこは何度も言うようにサブタイトルの「目を澄ませて」な映画なので、とにかく目を凝らして目を澄ませてケイコを見ていくことが適切な見方なのかと。
つまるところこの中でケイコは「ひとり」であることで人生を生きてきたような気がするんです。
高校時代に先生を殴ったとか、子供の頃にいじめられたことが彼女をボクシングへと導いたとか、殴るとストレス発散になるとか色々なエピソードが散見されてますが、結局のところケイコは「一人だけで打ち込める何か」を探し求めていたのではないかと。
痛いのは嫌だと本音をこぼしながらも、一人の相手に向かって殴るだけで自分を表現できることがあるとするのならば、コミュニケーションを必要とされる社会の中でそれがなかなか難しいケイコにとっては非常に居心地のいい場所だったのかもしれません。
そんなケイコでも、周囲の声はどうしたって耳に(心にという言い方が正しいか?)入ってくるわけで、母親から心配という名の不安を押し付けられたり、自分の話を聞きたがる弟だったり、ジムが閉鎖するかもしれない、会長が倒れたなど様々なノイズが入ってくる。
正直これが俺なら塞ぎ込んでしまうだろう。
めんどくさい、余計なお世話だ、やってられない、と。
ケイコも同じとは言い難いが悩まされていく。
ただただボ黙々とクシングがしたいのに、誰かが波風を立てる、次の試合頑張ってねと声をかけてくる、次の移籍先を探そうとしてくれる。
しかしそれでも彼女を可能性を信じてやまない会長の姿を見て、他者の存在の大きさを知ったケイコの表情が緩んでいく。
コンビネーションミットの途中で涙を流すトレーナーに思わず微笑む。
弟の彼女が手話でコミュニケーションをしてくれたことで、これまで挨拶も適当だった間柄に変化が訪れる。
仕事先でベッドメイキングを未だうまく出来ない同僚に、優しくレクチャーをする。
明らかに当初のケイコとは違うケイコの姿がそこにある。
彼女は決して涙は溜めても流すことはしない。
多分強いからだと思う。
聾者に未だ生き辛い世界で孤独に戦ってきたからだろうか、それとも生まれ持ったファイティングスピリットがそうさせたのか。
その強さが彼女を「諦めない」決心へと導いていく。
そして3度目の試合でケイコは絶対勝ちたい思いから声を荒げる。
試合後の土手沿いで対戦相手との会話をする機会を得たケイコは、涙を浮かべながら再び走り出す。
最後に
劇的な出来事は起きないが、こうしたケイコの動向を目を澄ませて覗き込むことで、継続することの苦しさや美しさといった、耳が聞こえようが聞こえなかろうが誰もが感じる喜びを、静かながらも熱のこもった描写で綴っていく。
きみの鳥はうたえるでも感じたが、他者によって自分を変えることができるという点においては、今回も同じ感覚を得ることができたように思う。
その変化をどのような解像度を上げて抽出していくのかを絶妙な塩梅で構成していく監督の技量と、それをフィルムに収めるセンスは抜群でした。
ケイコを演じた岸井ゆきのによるふてぶてしい態度から時折見せる屈託のない笑顔、特に今回はセリフが「はい」しかないので、表情と肉体でのみ演技しなくてはならない非常に難しい役だったと思いますが、素晴らしかったと思います。
また、実は本作は群像劇にもなっており、三浦友和演じる会長やトレーナーたちの心情も目を澄ませてみるとよく表現されていた物語だったのではないでしょうか。
しかし仙道敦子を久々に見たなぁw
さすがに歳を重ねたから気付かなかったけど、喋り方や佇まいは当時と変わらないなぁと。
日本語付き字幕上映も見に行こうかな。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆☆☆★★★7/10