ザ・キラー
デヴィッド・フィンチャー。
90年代から00年代にかけて映画にはまった者たちにとっては、決して避けて通れない監督の一人ではないでしょうか。
僕自身も「セブン」のラストや「ファイトクラブ」のタイラーにシビれたわけで、少なからずとも影響を受けた一人です。
しかし、若かりし頃にハマった監督の過去作を去年見返してみたところ、ことごとくハマらず、なぜあの時あんなに「面白い」と興奮したのか、色々戸惑ってしまいましたw
そもそも彼は「サスペンス」や「スリラー」を主とした作品を作っているけど、どうもサスペンスとしての見せ方はうまくないよなぁ…と。
とはいうものの、僕としては「ゾディアック」、「ソーシャル・ネットワーク」、「ゴーン・ガール」は好きな作品なので、こういうタイプの映画をまた作ってくれたらなぁと、今後も追いかけていきたい気持ちではあります。
今回観賞する映画は、そんなフィンチャーが手掛けるNetflix製作の映画。
もうメジャースタジオで映画を作る気のない彼が、どれだけ自由に作れたのか楽しみです…が、「Mank/マンク」みたいにはなってほしくないなぁ…。
色々愚痴っぽい冒頭ですが、早速観賞してまいりました!!
作品情報
フランスのグラフィックノベル「The Killer」を原作に、名匠デヴィッド・フィンチャーが監督、「セブン」のアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーが脚本を担当したアクションスリラー映画。
とあるニアミスによって運命が大きく転換し、岐路に立たされた暗殺者の男が、雇い主や自分自身にも抗いながら、世界を舞台に追跡劇を繰り広げる。
主演には「エイリアン・コヴェナント」やリブートされた「X-MEN」シリーズでおなじみマイケル・ファスベンダー。
「計画通りにやれ」「誰も信じるな」「感情移入はするな」「予測しろ 即興はよせ」「決して優位に立たせるな」「対価に見合う戦いにだけ挑め」など、自分に課したルールをつぶやきながら仕事を全うする姿を、怪しくもスマートに演じる。
他にも、「フルメタル・ジャケット」や「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」のアーリス・ハワード、「トップガン:マーヴェリック」や「ミッション・インポッシブル/デッド・レコニングPART ONE」のチャールズ・パーネル、そして「ベンジャミン・バトン」以来のフィンチャー作品出演となるティルダ・スウィントンなどが出演する。
また、本作の音楽をナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーとアッティカス・ロスが共に製作。
監督と何度も製作している彼の音楽が、作品にどんな効果をもたらすか注目だが、どうやら本作は「ザ・スミス」の楽曲が多く使用されているとのこと。
いったいどんな相乗効果をもたらすのか楽しみだ。
完璧主義者として知られるフィンチャーが、精巧な腕を持つ殺し屋の姿をどのように描くのか。
あらすじ
ある暗殺者の男(マイケル・ファスベンダー)は、どんな時も冷静沈着で計画通りに淡々とスマートに殺人行為を遂行していた。
しかし、彼はひょんなことからとあるニアミスで岐路に立たされてしまう。
彼は依頼主や自分のモットーに抗いながら、世界を舞台にした追跡劇を繰り広げることに……(ナタリーより抜粋)
感想
#ザ・キラー 観賞。
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) October 27, 2023
見せる気のないアクション、聴かせる気のないザ・スミス、笑かす気のない殺し屋。
「予測しろ 即興はよせ」、「感情移入は弱くさせる」、「誰も信じるな」
まるでフィンチャーが常に心がけてるかのような掟をぶつぶつ唱えながら復讐する、フィンチャー版「殺し屋はつらいよ」。 pic.twitter.com/NipQSY6QS2
いやぁ~困ったなぁ。
一見単純な復讐劇だが、全く面白く見せる気がない、独りよがりな作品としか思えず楽しめない。
単純にカッコイイと思えない、いやカッコよく見せない殺し屋の話、なのか?
以下、ネタバレします。
笑わせる気がない
フランス、ドミニカ共和国、ニューオーリンズ、ニューヨーク、シカゴと、世界を転々としながら、自身が犯したミスの代償を受けた殺し屋が復讐を果たしていく物語。
ひたすら心の声が語られるファスベンダーのナレーションで描かれる第1章は、如何に殺し屋が「待つことに慣れなくてはいけない」というきつい仕事を見せつけるかのようなエピソード。
心拍数を計りながらのどかなフランスの朝を満喫し、ヨガやストレッチをしながら心と体と緊張をほぐしていくルーティーンと、「予測しろ 即興はよせ」という文言から、決して衝動的な行動は禁物だという殺し屋特有の掟を、静かな口調で物語っていくナレーションが、総じて退屈な時間と化す第1章でした。
そこまで時間を割いてまで殺し屋ルーティーンなり掟を見せる必要があるのだろうか。
そんな疑問を抱きながらも、なかなか現れない標的に退屈しないような出来事が次々と起こる。
突如部屋に侵入してくる配達員というアクシデントは直接的なものだったが、いつでも逃げられるよう準備してあるスクーターや、簡単にたんぱく質を摂取できるマクドナルドの使い勝手さ。
バンズを食べずに肉と卵だけ頬張る殺し屋の姿から、如何に仕事に忠実で自分に課した掟にも忠実化が読み取れるわけだが、それでも退屈だ。
その退屈をどうやって覆してくれるのか。
その期待は見事に裏切られる。
あらすじでは、冷静沈着でスマートにこなす殺し屋がミスを犯すことから物語は動き出していく。
そう、彼はこの仕事でミスをするのだ。
散々、自分に課したルールや掟をカッコよくスマートな語り口で語っておきながら、だ。
それはもう俺からしたら「フリ」である。
ミスをすることでしっかり「落とす」ことを期待したのだ。
だが、その「ミス」も心の声で処理をする。
「くそっ」
見方によっては笑えるし、そこまで笑えなかったとしても「クスッ」とするような瞬間だ。
しかし、フィンチャーがそんなことするわけもない。
俺の期待は見事に裏切られた。
30分近く、フリを見せておいて、だ。
復讐に奔走する殺し屋
ミスを犯したからには、一目散でその場を立ち去らなくてはならない。
すぐに警察が来て検問するだろうし、被弾した場所から距離を特定しての捜索が始まるだろう。
殺し屋はスクーターで逃亡し、途中のガソリンスタンドで丁寧に体を拭き、髭を剃り、別の衣装に着替えて身を隠す。
急いで自宅のあるドミニカ共和国へと出国したいが、いつどこから狙われるかわからない危険な立場以上に、警察にも気を配らなくてはならない。
普段の我々からは想像もつかない周囲への警戒を怠らない殺し屋の所作を、本作は時間をかけて丁寧に見せていく。
その警戒により、殺し屋は一旦出発をキャンセルし、一夜をホテルで過ごす。
誰かが入ってきてもすぐに動けるよう、ドアノブにコップを立てかけ、その下にルームサービスの蓋を置く。
誰かがドアノブをひねれば、自然とコップが蓋の上に落ち物音を立てることで起きれるという仕掛けだ。
こうした所作は観ていて楽しい。
こうした細かい作業を的確なスピードで見せていく運動は、正にフィンチャーっぽいと感じた。
要らんけど。
第2章で、ようやく物語が具体性のある動きを迎える。
ドミニカ共和国の別荘に着くや否や、家が荒らされてることに気付く。
何と彼は妹と同居しており、彼が犯したミスのせいで妹が犠牲に遭ったのだ。
これで晴れて殺し屋は、「自分の犯したミスによって被害に遭った妹のために、復讐する決意をする」のである。
まず、妹の口から「グリーンのタクシーに乗って逃げた」という供述を頼りに、タクシー会社をあたる。
名簿から割り出した運転手を捕まえ、3日前に乗せた客の特徴を聞きだす。
もちろん殺し屋ですから、ちゃんと始末。
そして3章、ニューオーリンズ。
彼は大学で法律を教わったホッジス教授のもとを訪ねる。
どうやら彼が殺しの依頼をする上司のようだ。
どうやって侵入するか、常に準備と下見は怠らない。
リサイクルマークを緑色のマジックでひたすら塗りたくりながら、Fedexの配達員が従業員用の入り口を訪れるか待つ殺し屋。
しれっと清掃員の格好で侵入し、自動ロックがかかる時間を、水を飲みながらカウントし、誰からも気づかれないよう用心しながら様子を伺う。
そしてまずは助手を捕まえ、ホッジスの前に現れる。
結束バンドで拘束し、「妹を襲った奴は誰か、そして殺しの依頼主は誰か」を聞きだす。
御託を並べながら今すぐ自分の行動を改めろ、そしてすぐに逃亡して身を隠せと諭すホッジスに耳を傾けることのない殺し屋は、あらかじめ用意しておいたピンタッカーで、ホッジスの肺めがけて3発撃つ。
留めは刺さない。
命ギリギリにすれば吐くだろうという猶予を与えた。
喫煙しないホッジスの年齢と肺の動きを考慮した猶予だったが、結局そのままホッジスは息絶える。
残った助手の供述によって手がかりをつかんだ殺し屋は、彼女の自宅へ連れていき、ようやく妹にけがを負わせた殺し屋と当初の殺しの依頼主の居場所を突き止める。
第1章であれだけカッコつけておいて大失態を犯した殺し屋だったが、常に警戒を解くことのない神経と、用意周到な準備や下見、躊躇のない鮮やかな判断などを見ていると、さすが一流の殺し屋だなとわかる。
そしてその度に「誰も信じるな」、「感情移入は弱くさせる」など自身に課した掟を繰り返す心の声が耳障りになっていく。
たまには黙ってやってくれ。
その後、フロリダへ飛んで一人目の殺し屋と対峙。
番犬に吠えられないように、酒と睡眠薬を混ぜた肉を食わせ、隠密行動で殺しにかかる殺し屋だったが、相手もちゃんと殺し屋。
シャワーを浴びていると見せかけて、一気に殴りにかかってくる。
フィンチャーのアクションは「ドラゴン・タトゥーの女」でも感じたが、とにかく見せる気がない。
間接照明によってムード感のあるリビングによって、とにかく中途半端に暗い中、取っ組み合いの殴り合いを見せていく。
一度はTV越しで胸ぐらを掴まれる光景があったくらいで、あとはホントに何をやっているかわからない。
ただこれくらいはいい。
もっとひどいのは、0コンマ何秒か早送りして見せているのだ。
普通の人間が繰り出さないような攻撃や俊敏ある防御が、とにかく嘘くさい。
何で早送りしたんだろう。
幾らスタイリッシュに見せたいからってそれは卑怯だ、そもそも見せる気があるのだろうか。
呆れてモノが言えない。
その後もティルダ・スウィントン演じる女性の殺し屋の元を訪れ、やや哲学的な会話をしたのち、自分がやられる前に「殺る」殺し屋。
クマを仕留めようとする猟師の例え話は、まさにこの状況を語ったものだったに違いない。
そして最後の砦である、依頼主。
彼のルーティーンを探り、アマゾンでアイテムを揃え、彼がワークアウトに勤しむジムのロッカーから必要なモノを拝借し、実行にかかる殺し屋。
依頼主曰く、「ミスをした殺し屋はその後何をするか、何かをする前に先に手を打つのがベターだ」という理由から、依頼主は殺し屋の妹がいる自宅を襲ったのだ。
それに対して殺し屋はこう言う。
「お前は何もわかってない、今考えなくてはならないのは、俺はこうやっていつでもお前を殺せるということだ」と。
総じて本作は、復讐劇でありながら殺し屋としての心構えや掟、実行するまでの過程を的確に見せていく面白さが漂っている一方で、フィンチャー特有の「こうあるべき」な演出な見せ方を排除した、楽しませる気のない映像連発の独りよがりな作品だった。
とはいうものの、何でも簡単に手に入るし、簡単に捨てられるという現代特有の「モノに溢れた」時代を象徴するかのような描写も随時挿入された作品だった。
Amazonで注文すれば勝手に専用ロッカーに届くし、殺しの道具も普通に店で手に入る。
拳銃も裏稼業の人間にアポイントすれば手に入るし、スクーターのロックチェーンだってすぐに捨てられる。
ヘルメットは川に捨てればいいし、スクーター自体はその辺に乗り捨てても問題ない。
こうした購入と断捨離感が、まるでどこにも属さないフリーランスな殺し屋の扱いとも重なっていく。
心得と心意気があればだれでも殺し屋になれるという身軽さを見せながら、雇用主から見捨てられたら即廃業=死もあり得ない話ではないというデメリットもあるという物語だったのかもしれない。
そこから見えてくるものは、物質主義と消費社会に問題提起をしたファイトクラブから25年経った今でも何も変わってない現状への嘆き、それがフリーランスといういつでも雇えていつでも切り捨てられる、手軽な扱いへとスライドしていった問題をも浮き彫りにした、フィンチャーらしい復讐劇だったとも取れます。
最後に
いかにも「フィンチャーらしい」復讐劇と言えば聞こえはいいが、面白く見せる気のない映画は、僕はあまり好みではありません。
単純にカッコよく、単純に面白く、単純に興奮できる、単純にアガる。
そういった要素はごく普通の復讐劇で消費しやがれという文句を言われても仕方がないんですが、どうしても受け入れられなかったので、ああだこうだ言いました。
もうね、ザ・スミスをちょこちょこ聞かせるようなことしないでちゃんと1フレーズくらいは流せよと。
贅沢言っていいなら歌詞もつけろ。
そうでないと心拍数を保つための所作の意味がわからんねん。
というか、トレント・レズナーの劇伴をメインにした方が絶対よかったぞ。
普通にカッコよかったし。
カッコイイで言えば、相変わらずオープニングはかっこいいです。
あそこだけは認めるよフィンチャー。
もっと長く見せてほしかったわw
しかしあれですな、この映画を見てフィンチャーはああいう心の声を唱えながら仕事してるのかなとも思えた映画でしたな。
なんか、近づきたくないな…。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆★★★★★★4/10