怪物
ロマン・ポランスキー監督が手掛けた「おとなのけんか」という映画がありまして。
怪我をさせた子供の親と、怪我を負った子供の親、要は被害者と加害者の親が話し合って解決へと向かうんです。
ですが、ちょっとした言葉や態度が互いの親同士の間で徐々に軋轢を生んでいき、親から性別、そして人間という個の違いにまで発展しけんかをおっぱじめていくというお話なんですね。
この映画のエンディングは、結局子供たちは仲よく遊んでましたとさ、というオチ。
大人たちが勝手に出しゃばり、大人の都合でけんかしただけっていう内容なんですね。
子供たちは子供たちだけで解決できてしまう、寧ろ「いちいち親が出てくんなw」という子供の気持ちすら感じる作品でした。
なんでこんな話をしたかというと、今回観賞する映画はこの「おとなのけんか」に近く、子供たちのケンカから始まるからです。
シングルマザーの親や学校の先生、そこから大きな問題へと発展していくそうで、「おとなのけんか」レベルでは済まなそうな物語になってそうです。
正直、是枝裕和監督は「万引き家族」でカンヌを制して以降色々模索してるというか、これだ!ってのを感じなかったんですけど、今回は果たして。
早速観賞してまいりました!!
作品情報
『万引き家族』でカンヌ国際映画祭最高賞パルム・ドールに輝いた是枝裕和監督が、
「花束みたいな恋をした」で日本中の若者を泣かせた脚本家の坂元裕二と初タッグ。
そして音楽は、『ラストエンペラー』や、『レヴェナント:蘇えりし者』など、海外でも第一線で活躍し、先日惜しまれつつもこの世を去った坂本龍一。
映画史上、最も心を躍らせ揺さぶる奇跡のコラボレーションが実現。
その実力が評価され、第76回カンヌ国際映画祭にて脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。
湖のある郊外の町を舞台に、子供同士のけんかから始まった食い違う主張が、やがて社会を巻き込む大きな問題に発展ししていく物語を、様々な人物の視点を通して描く。
キャストには、「万引き家族」の安藤サクラ、「アヒルと鴨のコインロッカー」の永山瑛太、「キャラクター」の高畑充希、「ステップ」、TVドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」の角田晃広、「ヴィレッジ」の中村獅童など、是枝監督と坂元裕二のタッグだからこそ実現した俳優陣が集結した。
本作は、坂元裕二が幼少期に体験した出来事を元に作られた物語。
どうしても他者同士で互いに見えてないものは存在し、理解しあわなくてはならない。
そんな場合に直面した時、私たちはどうすればいいのかという部分をテーマに作られた。
果たして「怪物」とはいったい何なのか。
怪物探しの果てに、私たちが見たものとは。
あらすじ
大きな湖のある郊外の町で、息子を愛するシングルマザー沙織(安藤サクラ)や生徒思いの学校教師・保利(永山瑛太)、無邪気な子どもたちが平穏な日常を送っている。
そんなある日、学校でケンカが起きる。
よくある子ども同士のケンカのようだったが、彼らの食い違う主張はやがて大人や社会、メディアを巻き込み、大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちが忽然と姿を消す……。(HPより抜粋)
感想
#怪物 観賞。羅生門、最後の決闘裁判のように複数の視点によって独自で答えを見出しブラインドスポッティングの如く自分が見えてないもの見たくないものを突きつける。一瞬親父そっくりな顔をする安藤サクラ、永山瑛太の勘違いしそうな表情、勝手に決めつけてしまいそうな高畑充希や田中裕子が👍👍 pic.twitter.com/6d7AYXVk2J
— モンキー🐵@「モンキー的映画のススメ」の人 (@monkey1119) June 2, 2023
シングルマザー、教師、そして子供たちの視点で描く「体罰問題」。
時に怒り、時に哀しみ、そして優しさを引き出す坂本龍一の音楽によって、「見たいモノしか見ない世界」の事実を紡いでいく見事な物語。
ラストはホロリとしてしまいました。
以下、ネタバレします。
ざっくりあらすじ。
駅前のビルで火災が発生。
シングルマザーの沙織は、ひとり息子・湊と共に2階のベランダから見下ろす。
「ブタの脳を移植した人間は、ブタなの?それとも人間?」
学校の先生が話していたという些細な問いかけが気になっていた湊は、母親に問いかける。
しかし沙織は、必死で消火活動に励む消防士への応援に夢中だ。
亡くなった夫の代わりに、湊が結婚するまで大事に育てると誓った沙織は、クリーニング店で働きながらも、決して息子の前で疲れを見せず絶えず笑顔を振りまいていた。
しかし湊の様子に異変を感じていく。
片方しかないスニーカー、土が混ざった水筒、切った髪の毛が散乱する洗面所、そして耳の傷。
徐々に不安を覚える沙織は、夜になっても帰ってこない湊によってさらに不安を募らせていく。
湊は廃線となった鉄道が置き去りにされたトンネルの中にいた。
帰り道の車内で優しく語りかける沙織だったが、湊は突如走行中の車から飛び降りる。
病身で精密検査を受ける湊。
車内と同様神妙な面持ちで接することをしないよう心掛けていた沙織だったが、湊は急に端を発して心情を露わにする。
僕はブタ人間なんだ!
学校の先生にそう言われた事で悩み続けていたと語る湊の言葉を信じ、シングルマザーの沙織は単身学校に乗り込むのだった。
担任の保利先生は現れず、学校の校長と主任、そして湊が2年の時の担任が沙織の前に現れる。
事情を聞きたい沙織だったが、まずは事実確認のための聴取のみで終わってしまう。
後日再び沙織は学校へ出向く。
すると保利先生と校長らは、今回の件についてひたすら謝罪するばかりだった。
保利先生の態度は、沙織から見れば反省の様子もなく、ただ言わされているかのような態度に見えた。
保利先生が謝罪するや否や頭を下げる教師一同。
彼らの心の奥底には「謝っているのだから、早く終わってほしい」、そんな様子に見えるほど。
船場吉兆の息子の如く、主任に言われた通りの返答しかしない校長の態度に、怒り心頭の沙織は、この後も何度も学校に出向き「キチンと話してほしい」と詰め寄る。
校長は先日、孫を亡くしたばかりだという。
その気持ちは察するが、あなたが受けた哀しみを私も今受けている、だからきちんと説明をしてほしい、ただそれだけのことを、なぜあなたたちはできないのか。
沙織曰く「目が死んでいる」教師たちに詰め寄る沙織。
数日後、構内でPTAらの前で謝罪の場が作られた。
そしてメディアによって大きく報じられていく「体罰問題」。
保利先生から「湊くんは、同じクラスの星川くんをいじめている」と聞かされた沙織は、彼が住む一軒家に事情を聞きに向かう。
ちょうど星川君が帰ってきた。
「湊くんのお母さん?湊くん元気ですか?学校に来ないから心配で。あ、手紙書くね」
沙織を家に招いた星川君だったが、そこには母親の姿はない。
母親が帰ってくるまで待たせてもらうことになった沙織は、星川君の右腕にやけどの跡を見つける。
息子はほんとうに彼をいじめているのか。
直接聞くに聞けない沙織は、未だ様子のおかしい湊に愛情を注ぐことでしかできずにいた。
後日、湊が階段から落ちたと学校から連絡が入り、湊を迎えに行く沙織。
保健室に湊の姿はなかった。
開けっ放しの窓を見て、起きてはいけないことを想像した沙織だったが、トイレにいたという主任の先生の発見により、無事帰宅することに。
そして台風が近づく。
暴風区域の予報に伴って窓に段ボールを張り付ける沙織と湊。
翌朝、未だ風の音が鳴り響く家の中で、湊の姿が見当たらない。
すると外から保利先生の声が聞こえる。
「麦野!!麦野!!!」
窓を開けると、湊の机から「怪物」の絵が描かれた紙が、いくつも飛び交うのだった。
・・・というのが、沙織の視点で描かれた序盤でした。
怪物はどこに潜んでいるのか
複数の視点を映し出すことによって「真実」や「事実」が浮かび上がっていくスタイルの作品は、黒澤明監督の「羅生門」を始め多々存在します。
最近で言えば「最後の決闘裁判」が個人的には印象に残っており、女性が暴行されたことに対する決闘裁判を、複数の当事者の視点をひとりずつ時系列で見せていくことで、彼らの主張は「自分が見たいモノ」という誇張と主観でしかなく、被害者による「事実」によって補完されることで、私たちは「都合のいい解釈」でしか物事を見れていないことを突き付ける、素晴らしい脚本の作品でした。
本作もそれにあやかってか、シングルマザーの沙織、加害者とされる保利先生、そして事件の当事者である湊と星川君の3つの視点で物語が構築されていきます。
沙織はあくまで「子を守るため」の行動をしているためか、学校側、特に加害者に当たる保利先生を「敵」と見做して攻撃をしていく姿が描かれていました。
シングルマザーだからというわけではありませんが、親が子を守るのは必然で、事情を把握しないままことを有耶無耶にする学校側の態度に怒りを露わにする気持ちが痛いほど伝わるエピソードでした。
しかしどうもしっくりこない。
それもそのはず、保利先生の言い分も描かれてなければ、湊が一体何をしたのか、もしくはされたのかが全く描かれていないから。
パズルのピースを敢えて嵌めないまま、このエピソードは保利先生の視点へと切り替わっていくのであります。
見つからないピースは、しっかり保利先生、湊と星川君のエピソードに用意されており、全てのエピソードを見終えることで、一体この事件の全容は何だったのかを巧妙な脚本によって成立させていた技巧的な作品だったように思えます。
また本作は、何かを守るための行動を皆がしていた物語でもあったと思います。
その「守る」ための行為や行動は、一方的な決めつけによって「敵」を見立て、結論を急がせているような形にも見え、誰もが相手の立場に立って物事を見極める行為をしていない姿が印象的でした。
沙織は湊を守るため、校長らは「学校」を守るため。
星川君のお父さんや保利先生の彼女もまた、「守る」ための行動に思えて仕方ありません。
湊と星川君の気持ちを聞かないまま、汲み取らないまま、どんどん大ごとになっていく問題は、現代のどこかでも起きている現象だったりするのでは、と考えたくなるような物語だったと思います。
そうした行動が、実は自分の中に潜む「怪物」を生み出している、そんな作品だったのかもしれません。
冒頭で描いた「おとなのけんか」同様、「見たいモノしか見ない」ことによって生まれた「怪物」たちが、子供の気持ちや言い分を聞かないまま事を荒立てていくお話だったと。
そんな大人たちに囲まれて生きる子供たち。
湊と星川君が最後に取った行動は、僕からしたらハッピーエンドのように感じます。
誰も自分たちの事を理解してもらえないのなら、いっそのことあの電車に乗って澄み切った景色の中で二人だけで暮らした方が、きっといいに決まってる。
そんな逃避をさせないために、大人たちは本作を通じて、心の中に潜んだ怪物を呼び起こさないように心掛けなくてはいけないのかもしれません。
そのほか雑感
是枝監督の過去作「万引き家族」は、「万引きを助長している」「日本の恥だ」などと、映画を見ずにワーキャー喚く者たちによって、SNSで話題になりました。
あの映画のどこに「万引きを助長」している描写があったのか、しっかり見た僕としては不思議でしょうがない話題だったわけですが、個人的には当時是枝監督は、本作がそういう問題に発展することで、敢えて作品に注目が集まることを予想していたような気がしてなりませんでした。
それが事実がどうかは本人のみぞ知るお話なので、これ以上言及しませんが、こうしたシリアスな作風の映画は、中々映画館に足を運ばせる気持ちにさせてくれないでしょうし、興行的にも大ヒットさせるのに難しいイメージがあり、こうした宣伝手法は個人的には非常にアリだと思ってます。
もちろん万引き家族はカンヌでパルムドールという冠をぶら下げて公開したわけで、大ヒットに繋がったわけですが。
で、本作「怪物」。
本作はまだ自らのセクシャリティが理解できていない未熟な少年たちの精神的な愛の育みを描いた作品だったんですね。
僕が見たところからすると、星川君はすでに自分のセクシャリティを理解しており、父からそのことに対して「お前はブタ人間で病気だから治さなくちゃいけない」とDVを受けている背景が映し出されております。
そして湊くんは、彼と仲良くなっていく過程で、彼に対する気持ちが友情とは違うことを、肌で感じていくわけです。
湊くんは、未だ理解できない感情に苦しんでいき、教師にも母親にもわかってもらえない状況によって、星川君と一緒にいることが一番だと気づいていきます。
あくまでこの「怪物」というタイトルは、大人たちの決めつけによって心の中に潜む怪物の事を指していると自身は考えますが、劇中での星川君の父親が言う「ブタ人間」=「怪物」のように、性的嗜好がマジョリティと違うことを「怪物」と呼んでいるかのように思えてしまうタイトルなんですよね。
何が言いたいかというと、そうした勝手な決めつけが憶測を呼んで、見てもいないのにあれこれ揶揄する輩が扇動した万引き家族のような問題にならないかと心配しています。
しかもそうした問題になることを、今回も是枝監督は予想してのタイトル付けとも思えてしまう作品で、一体今後どういう問題に発展するか個人的には心配です。
様々な形で議論するのはいいことですが、とりあえずはタイトルだけで決めつけて一方的な主張をするのではなく、本作の羅生門スタイルのように「自分が見たいモノしか見ない」ような視点をまずは外して盛り上がってほしいと願っております。
とはいえ、主観でしか見れない事象や現象は多く、なかなか簡単にできることではないとは重々理解していますが、とりあえず「怪物」になることだけは避けてほしいなと。
そうした意味でも本作は、映画の内側外側の構造自体が巧いんですけど。
最後に
僕は坂元裕二作品は映画よりも「問題の多いレストラン」や「カルテット」のような、いちいちこねくり回したセリフで可笑しく見せるキャラたちの群像劇でありながら、しれっと人間関係の悩みや問題を取り入れる脚本に面白みを感じているんですが、本作はそれらとは違った作風を感じます。
彼は他にもシリアスな題材の作品を作っており、僕はそちら側の作品を見ていないこともあり、今回新鮮だったんですよね。
あれ、全然台詞がねえぞ、みたいな。
きちっと行間を大事にしているというか、その行間は次の誰かの視点によって明かされるかのような脚本になっていましたし、敢えて正解だったり事実を提示しないことでこちら側に答えを委ねるかのような物語というか。
それがすごく「モヤモヤ」になっていて、いい意味で「映画を見た」気にさせる心地よさがあるというか。
あれはなんだたんだろう、これは一体どういうことだろうといった疑問は、どう頭を働かせても結局は主観でしか物事を見れないってことを突き付けられてるような。
だって実際、田中裕子演じた校長は夫が孫を轢いてしまったのか、それとも夫が校長の身代わりになったのかを確定づける証拠を見せないし、永山瑛太演じる保利先生は果たしてガールズバーに行ったのかどうかさえも分からずじまい。
全ては当の本人にしかわからないような作りなんですよね。
多分映画仲間と「一体あれは何だったんだろう」と議論し合う余地を与える面白さだし、それをしたところで答えは出ないってのがいいなぁと。
また個人的には母親として怒りを露わにする安藤サクラの表情が素晴らしかったですし、髪型と風貌だけでこちら側がこういう先生なんだ」と決めつけてしまいがちな保利先生役の永山瑛太を、改めてこの人器用な役者だなぁと感じたし、腹の内が全く分からず、ただただいや~な校長にしか見えなかった田中裕子も素晴らしいし、子役たちもよくあんな芝居できたなぁと感心ばかりしながら見ていた作品でした。
また彼らの心情を坂本龍一の音楽が見事に引き立ててましたよね。
安藤サクラパートは常に緊張感を持続させ、永山瑛太パートは自分の主張を殺さなくてはならず気持ちのやり場を見つけられない姿を、どこか悲哀じみた音色で奏で、ラストの子供たちのパートは2人が紡いでいく関係性を、優しい旋律で背中を押していく手助けをしていた気がします。
ラストシーンで涙が出たのは、教授のおかげだったかもしれないです。
あの神々しさが渦巻く描写と晴れやかな気持ちにさせるメロディ。見事でした。
正直作品内でのサプライズ要素だったり意外性、パンチはなく、予想できる範囲の作品でしたが、作り方が非常に好みだった映画でした。
きっと誰かとこの映画の話をしながら良さを高めていく作品なんでしょう。
誰かと語ろうっと。
というわけで以上!あざっしたっ!!
満足度☆☆☆☆☆☆★★★★6/10