モンキー的映画のススメ

モンキー的映画のススメ

主に新作映画について個人の感想、意見を述べた文才のない男の自己満ブログ

映画「アステロイドシティ」感想ネタバレあり解説 中身も外見もわかんなくて「未知との遭遇」でした。

アステロイド・シティ

どうも、ウェス・アンダーソン作品にハマってないモンキーです。

相変わらず彼の作品はシンメトリーを基調としたポップアート感覚の映像が楽しくあるんですが、物語におけるカタルシスが毎回弱く思え、あまり印象に残らないんですよね。

 

とはいえ今回は僕がアンダーソン作品の中でも上位に位置してる「ムーンライズ・キングダム」っぽさだったり、1950年代(ここ大事)のSF要素も秘めた、これまでにないウェス・アンダーソン作品になるのではないかと期待。

 

それと同時に豪華キャストが織りなすアンサンブル演技だったり、個々のキャラが醸し出すユーモア描写など、従来通りのウェスっぽさも見逃せないですね。

というわけで早速観賞してまいりました!!

 

 

作品情報

グランド・ブタペスト・ホテル」や「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」などで知られるウェス・アンダーソン監督による新たな物語は、砂漠の街で起こった忘れられない夏の七日間。

 

1950年代のアメリカを舞台に、架空の町「アステロイド・シティ」を訪れた5人のジュニア宇宙科学者や町の人たちが、突如襲来した宇宙人を巡って起こす騒動を描く。

 

第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、アメリカ公開ではウェス・アンダーソン監督作史上最高の週末成績を記録した本作。

キャスト陣も、ジェイソン・シュワルツマンスパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダー・バース)、スカーレット・ヨハンソンジョジョ・ラビット)、トム・ハンクスオットーという男)、ジェフリー・ライト007ノー・タイム・トゥ・ダイ)、ティルダ・スウィントンギレルモ・デル・トロのピノッキオ)、ブライアン・クランストン犬ヶ島)、エドワード・ノートン(ナイブズ・アウト:グラス・オニオン)など今回もウェス・アンダーソン監督常連のキャストが集結。

シンメトリーを基調とした精巧な設計によって作られた舞台の中で、彼らが滑稽ながらも親しみあるキャラを演じた。

 

また監督は、CGを極力使用せず実際にセットを立てて撮影するアナログな手法で、シンメトリーを基調とした精巧な設計を映像に収めることで有名。

本作もスペインのセットで1955年当時の雰囲気を、様々なミニチュアを使って再現することで、物語に魔法をかけることに成功した。

 

そして監督作品では「天才マックスの世界」や「ムーンライズ・キングダム」でも描かれた「子供たちが何を感じどう生きるか」についても言及。

きっと親子でも楽しめる作品になっているに違いない。

 

一つの大きな事件をきっかけに、そこに集った人たちの人生の軌道が少しだけ変わっていく。
まぶしい太陽と陽気な音楽の元で大事な何かに気づく、おかしくてちょっと切ない最高傑作の誕生だ。

 

Asteroid City (Original Score)

Asteroid City (Original Score)

  • ABKCO Music & Records, Inc.
Amazon

 

 

あらすじ

 

時は1955年、アメリカ南西部に位置する砂漠の街、アステロイド・シティ。

隕石が落下してできた巨大なクレーターが最大の観光名所であるこの街に、科学賞の栄誉に輝いた5人の天才的な子供たちとその家族が招待される。

 

子供たちに母親が亡くなったことを伝えられない父親、マリリン・モンローを彷彿とさせるグラマラスな映画スターのシングルマザー──それぞれが複雑な想いを抱えつつ授賞式は幕を開けるが、祭典の真最中にまさかの宇宙人到来!?

 

この予想もしなかった大事件により人々は大混乱!

街は封鎖され、軍は宇宙人出現の事実を隠蔽しようとし、子供たちは外部へ情報を伝えようと企てる。

 

果たしてアステロイド・シティと、閉じ込められた人々の運命の行方は──!?(HPより抜粋)

 

 

感想

1950年代のアメリカそのものがモチーフとして描かれる劇中劇。

色味や構図は相変わらず独特なデザイン性で絵画的だが、物語はさっぱりわからん!

舞台裏見せる意味あった?

以下、ネタバレします。

 

 

 

 

 

 

 

 

さっぱりわからん

昨今著名な監督らが現代劇ではなく、過去の時代を舞台に物語を描くことが多く見受けられるようになりましたが、ウェス・アンダーソンもその一人、なのでしょうか。

それこそ前作「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」の舞台も現代ではなかったうえに、架空の町という設定の中で描いた架空の雑誌に携わる人たちのお話だったわけで。

 

その理由は様々だと思いますが、現代劇を描くうえで「多様性」は避けて通れないわけで、そうした面が作家を苦しませている側面は実際あると思うんですね。

だから過去の時代を描いてるんだろうと自分は解釈しております。

 

じゃあ本作がタランティーノやスコセッシのように、いわゆる旧態依然な時代にあったような差別的な社会や男尊女卑のような社会の中で起きたドラマを描きたかったのかというと、全くそうじゃない。

 

あくまで1950年代のアメリカがどういう姿だったのかを、様々なキャラクターに落とし込んで描いた物語だったと思うんです。

実際スカーレットヨハンソンが演じたキャラはマリリンモンローを彷彿とさせたキャラクターだったろうし、他のキャラにもどこか当時の名優を思わせた細かい設定があったに違いないと思わざるを得ない。

 

それ以上に素晴らしいのは世界観。

ターコイズグリーンで埋め尽くされた空には雲一つなく、赤みがかった山々と黄色く敷き詰められた荒野。

87人しか住んでいない小さな町は、途中で工事が内られたままの高速道路や小さなモーテルしかなく、一見殺風景に見える舞台ですが、広大な景色によって非常に見栄えのする世界でした。

 

相変わらず細部にまでこだわった舞台や美術、カメラワークにシンメトリーな構図、そして色味であり、監督らしい独創性に富んだ作品であることは間違いないのであります。

 

ただそれはもはや監督のいつも通りのスタイルであるために、既に僕からしたら「いつもの」感覚でしかないわけです。

だから彼には「グランドブダペストホテル」の時のような物語を期待したかったわけですが、いかんせん前回と同じ時のような「一体何を物語っているのかわからない」作品に留まっておりました。

 

基本的な物語の流れとしては、あらすじのとおりジュニア宇宙コンテストの授賞式にやって来たら宇宙人が襲来して、町の人や政府にまで規模が及ぶ大混乱へと発展していくというものです。

 

しかし公式のあらすじには一切語れてない部分が本編には描かれていました。

それが「アステロイドシティ」という舞台の舞台裏をTVショーで流すという、入れ子構造または劇中劇となっていたのであります。

 

しかもこれが非常にややこしい。

アステロイドシティが本編なのか、その舞台裏を見せるTVショーがメインなのか区別がつかない。

オープニングはブライアン・クランストン演じる司会者が説明を入れながら、エドワード・ノートン演じる脚本家が、この伝説の舞台をどうやって生み出したのかというシーンが挿入される。

 

舞台は3幕構成によって作られることや、どんな役者がどんな役を演じるのかまで全てが語られる点においては、何も情報を得ずに観に来た人たちにとっては優しいのかもしれないが、事前にどんな内容化を把握して臨んだ僕としては、この冒頭のシーンで「あれ?俺何見に来たんだ?」とかなり戸惑ったのであります。

 

さらに戸惑わせるのは、この「舞台裏の風景」が物語の途中で幾度も挿入されていくこと。

脚本家とジェイソン・シュワルツマンが演じたオーギーが役に抜擢される背景や、シューベルト・グリーン演じるディレクターと離婚寸前の妻とのやりとり、ウィレム・デフォー演じる演技講師の指導の下レッスンを受ける演者たち、そしてオーギーが突如舞台を抜け、演じることができなくなるというハプニング、果ては物語に司会者のブライアン・クランストンが顔を出すなど、劇中劇と劇の間を何度も出たり入ったりする。

 

こういうことをされると正直物語を追いたいという気持ちがそがれ、集中力を乱されるのであります。

一体どっちの劇が大事なのか、激と劇中劇を往復することが本作にどんな意味を与えているのか、こうした雑念を呼び起こしたせいで僕としては一気にしらけてしまったのであります。

 

 

大まかな流れは理解してはいます。

妻を亡くしたことを子供たちに言えないオーギーと喜劇女優であるミッジが恋仲に発展しながらも、それぞれが事情を抱える姿、さらには宇宙人襲来を隠ぺいしようと目論む政府など、大人たちの都合に付き合わされる子供たちが、自分たちのしたいことやできることに異を唱えていくというものだったと。

 

沢山の豪華キャストで彩られている故、彼らの見せ場や出番にも気を使わなくてはならないのだろうが、そんなことは見てるこっちはどうでもよく、物語をもっとシンプルに面白くしてほしいわけです。

 

流れだけ見れば子供たちを主体としながらも大人の都合によるやり取りに一定の理解を受けることができる群集劇だったのに、なんでこんな構造にしたのかと疑問に思うばかりです。

 

一応考えるふりをしてみる。

とはいうものの、この1950年代のアメリカという時代がどういうモノだったのかをよく考えてみると、色々透けて見えてくるかもしれないので考えてみます。

・・・いや、無理でしたw

いやいや一応やってみます。

 

そもそも1955年と言えば第二次世界大戦が終結していたり、中流家庭が家や車を持ったりできた時代。

インディ・ジョーンズ/クリスタルスカルの王国よろしく、郊外にできた街の家々は皆どれも似たような構造の家でしたし、しかもそこでは核実験が行われてたわけであります。

 

しかもその後のアメリカは、ソ連との宇宙開発競争へと発展しており、今回こうした要素がこのアステロイドシティには詰まっていたと言っても過言ではありません。

 

さらに言えば、1950年代のアメリカの映画産業は、赤狩りを始め独立系のプロダクションの増加や、それによる興行収入の減少など下降路線を辿っており、それまでのハリウッドスタジオシステムでは通用しない時期を迎えていたのであります。

一番の影響は「テレビの普及」とも言われており、郊外で一軒家を持った人たちが自宅で娯楽を楽しめるようになったことから映画離れが加速したのではないかと。

 

実際テレビでは味わえないモノづくりが盛んになり、当時の大作映画はミュージカル映画や史劇などのスペクタクル感ある映画が多かったようですし、映画も色々テコ入れせざるを得ない状況下だったわけです。

 

そう、こうした背景を考えてみると、本作「アステロイドシティ」がなぜ、戯曲の舞台裏をTVショーという形で見せたのかがちょっとだけ理解できるのかと思うんです。

 

そうした時代において映画やテレビはどういう変化を遂げたのか、また演者に対してもどういった変化が伴われたのかを映し出した作品だったのではないでしょうか。

特にミッジがメソッド演技をやろうとしている辺りは、正にそういうことなのではないかと。

 

それを踏まえたうえで見るともう少し楽しめるのかもしれませんが、それにしたって面白いと思えないのが俺の良くないところ。

そもそも本作、いわゆるごく普通の物語を描いてないのは上で書いたことから予想できると思いますが、とにかく「それ意味ある?」というやり取りや台詞のオンパレードなんですわ。

 

劇中劇「アステロイドシティ」の軸はあくまでオーギーとミッジ家族。

彼らを中心にことが動いていくんだけど、周囲の人物たちも時間の経過によって関係性が変わっていくわけです。

それこそ学校の先生であるマヤ・ホーク演じるジューンが、勝手な行動をとる生徒に怒りを露わにする一方で、その生徒を構っていたカウボーイに恋心を抱くようになる件とかありますけど、ぶっちゃけ本筋に特に影響をもたらすエピソードでもなく。

 

またはコンテスト受賞者の子供たちがゲームをする件があるんでんすけど、これが異様に長い。

もちろんゲームのルール上長くしないとどれだけ難易度が高いかを提示できないってい理由もあるんでしょうけど、そのゲームが彼らにどんな変化をもたらすかに関しては全くなく、ただただこいつら頭ええやん、くらいにしかならない。

 

他にも授賞式を仕切る将軍のよくわからんスピーチだったり、ティルダ・スウィントン演じる科学者が星を探す件とか、なんならカウボーイたち要る?とか、受賞者の親御さんたちのやり取りも要る?くらい。

そのやり取り自体面白ければいいけど、基本全てにおいて早口で会話してるもんだから、内容全然入ってこないし、別に聞いてなくても意味ないって思ってるから無視したしw

 

こういうたくさんの人たちを「ぶつ切り」で描いてるんもんだからお話が繋がってるようで繋がってないんですよね。

尚且つウェスアンダーソンの映画に出てくるキャラって、どこか魂のこもってない血の通ってない人形みたいな節があって、基本的に感情移入もしなければはっきりとした喜怒哀楽も見せないので、僕と彼の映画の間にはそういうキャラづくりから結構な壁があるんですよ。

こっちが入ろうとしても入らせてもらえないみたいな。

 

そういう面から見ても彼の映画が「アート」っぽく思えるのがわかるなぁと。

 

 

最後に

まぁボロクソに言いましたけど、正直もう彼の作品を追う必要が僕の中ではかなり弱まってきていて。

今回ムーンライズキングダムのような子供たちによる可愛らしい物語かなぁと思ったらとんでもなかったわけで、こうした期待外れな面から、もう今後の彼の作品はアカデミー賞にノミネートされない限り見なくてもいいかなと。

 

一応終盤にはマーゴット・ロビーが登場してましたけど、バービーと被ったこともあって少ない出演時間でしたね。

 

唯一褒める所と言えば、オーギーんとこの3人娘でしょうか。

お母さんの遺灰を、モーテルの、しかも共同シャワー室の裏に埋める、そこへおじいちゃん演じるトウ・ハンクスがやってくるんだけど、前回あった時からの記憶がおぼろげなせいで、埋めた遺灰を掘り起こそうとするおじいちゃんに向かって「地獄へ落ちろ!」とか言うしwww

他にもダイナーのウェイトレスのおばあちゃんが「お姫様たちは何にする?」と注文したら「お姫様じゃない!宇宙人だ!魔女だ!」とかかわいくもねえこと言うしw

 

荷物運ぶシーンを引きで撮ってる時もしっかりお兄ちゃんの後ろに一列で並んで持っていくのも可愛かったなぁw

だからこういうのは良いんですよね、可愛らしくて。

そう、ウェスアンダーソンの描くキャラってみんな可愛いんですよ、老若男女問わず。

グランドブダペストホテルのウェイレムデフォーだって殺し屋だったけどどこか可愛げがあったものw

 

そういうのが活かされた物語だったらなぁってのは常に思いますw

とりあえずこれで卒業かな、彼の作品はw

というわけで以上!あざっしたっ!!

満足度☆☆☆☆★★★★★★4/10