モンキー的映画のススメ

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主に新作映画について個人の感想、意見を述べた文才のない男の自己満ブログ

映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」感想ネタバレあり解説 スコセッシが描く「かつてのアメリカの闇」。

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン

この監督にこの俳優あり。

そんな名コンビは昔から数多く存在しますが、マーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオもその仲間に入るのではないでしょうか。

 

ギャング・オブ・ニューヨーク」、「アビエイター」、「ディパーテッド」、「シャッター・アイランド」、「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」と、既に5作もタッグを組む関係性。

またディカプリオに至っては、「タイタニック」で抱かれたアイドル俳優的イメージを、スコセッシ作品に出演し続けることで払拭していきました。

 

そんな二人が再びタッグ。

しかも、本作にはかつてスコセッシと共にタッグを組んできたロバート・デ・ニーロが出演。

監督の前作「アイリッシュマン」でのデ・ニーロとはまた違う役割なのか、それとも。

 

また、スコセッシ作品といえば「長尺映画ばかり」という側面もありますが、今回は何と上映時間3時間20分…。

「アイリッシュマン」も「ザ・バットマン」も何とか3時間耐えられた(いや長いよあれは)僕ですが、今回ばかりは寝そうですww

いや、面白ければ寝ない!!…かも。

 

今回、試写会に招待いただき観賞してまいりました!!

 

作品情報

アメリカ合衆国のジャーナリストで、「さらば愛しきアウトロー」や「ロスト・シティZ 失われた黄金都市」と原作が映画化されているデヴィッド・グランによるノンフィクション本「花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」を、「アイリッシュマン」のマーティン・スコセッシ監督と、「フォレスト・ガンプ/一期一会」の脚本家エリック・ロスの手によって3時間20分にわたる長尺映画として製作。

 

石油を採掘したアメリカ先住民の部族から富を奪おうと企む白人たちの姿を、ある男女の恋を絡めながら描く。

 

主演を担当するレオナルド・ディカプリオは、当初特別捜査官のテキサス・レンジャーを演じる予定だったが、本人の意向で先住民と結婚する白人男性役に変更となった。

 

他にも、スコセッシ映画常連のロバート・デ・ニーロ、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のジェシー・プレモンス、「ザ・ホエール」のブレンダン・フレイザーといった著名なキャストのほか、ネイティブ・アメリカンの血を引く女優リリー・グラッドストーンがディカプリオの嫁役を演じる。

 

また本作は、Apple TV+が製作、パラマウントが共同配給という形で全世界で公開が決定。

公開後、近日中にApple TV+にて世界同時配信される。

 

配信プラットフォーム隆盛の今、今後の配給形態の新たな形となるかもしれない。

 

タイトルの意味はオクラホマ州オセージ族保留地において、5月になると背の高い草が生え、小花の光と水を吸い取る≒小花の命を奪い取ってしまうことが由来とのこと。

果たして小花の命を奪い取っていく花殺し月はいったい誰なのか。

 

また、これまで幾多の暴力を描いてきたスコセッシが、人間のどんな醜さを描くのか。

老齢にしてまだ枯れることを知らないスコセッシの野心を存分に味わってほしい。

 

 

あらすじ

 

20世紀初頭のアメリカ・オクラホマ州。

先住民族のオーセージ族は、石油を掘り当てて莫大な富を得るが、その財産を狙う白人たちが彼らに近づく。

白人たちはオーセージ族を言葉巧みに操っては財産を次々と取り上げ、やがて命までも奪っていく。

悪事が加速していく中、オクラホマを訪れたアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)は、オーセージ族の女性モーリー・カイル(リリー・グラッドストーン)と出会って恋に落ちる。(Yahoo!映画より抜粋)

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感想

スコセッシはいつだって人間の強欲さと暴力性を映し出してくれる。

だからって206分もかけて描くことはないんだよ…。

疲れはないけど、もっと縮められたって…。

以下、ネタバレします。

 

 

 

 

 

 

 

決して葬ってはいけない事件。

オハイオ州とミシシッピ州流域という「水の間に生まれた」オセージ族は、ミズーリ州とカンザス州を経て西へと追いやられた部族。

 

最終的にアメリカ政府の要請でオクラホマ州の居留地に集められ、白人たちが陣取る国でひっそり暮らすことになった彼らだったが、そこで石油を発掘、鉱業権を保持したまま開発業者に土地を貸し出し、気が付けば一人当たりの富裕率が当時世界でトップとなるほど裕福になった。

 

オセージ族は鮮やかな色合いの服を身に纏い、白人のメイドや運転手を従え暮らすまでに。

油田の採掘作業員を雇うために白人らが押し寄せるこの地で、何十人ものオセージ族が不可解な死を遂げるという事件が発生した。

 

射殺もあれば毒殺もあるような、いかにも「事件性の高い」死だったにも拘らず捜査はなし。

そしてオセージ族はFBIに捜査を依頼、FBIとしては最古の殺人事件の一つとして語り継がれている。

 

そんな実在した事件を認めた原作を映画化したのが本作。

常に人間の欲とバイオレンスを惜しみなく描いてきたスコセッシが、決して葬ってはいけない物語として製作しただけあって、見ごたえのある作品ではありました。

 

映画をそこそこ見ている人なら理解できるかもしれませんが、インディアンを描いた作品のほとんどが西部劇で、白人が彼らを仕留めてハッピーエンドのような映画が昔たくさんありましたし、「ダンス・ウィズ・ウルブス」や「小さな巨人」のように白人らが彼らと共に生活することで絆が生まれる物語もありましたが、基本的な時代設定は1800年代とかの話なんですよ。

 

それよりも時代が後の1920年代が舞台で、尚且つ富裕層のインディアン一族がいたってことに驚きなんですよね。

さらには彼らが白人をこき使ってたってからさらに驚き。

 

そんな歴史的背景の中で、白人らが彼らの持つ金や利権を根こそぎぶんどってやるっていう欲から生まれた事件が本作の軸になっております。

 

なぜスコセッシが今こんな映画を作ろうと思ったのか。

それはきっと過去にあった出来事は今後も起こり得るという警鐘を込めた想いからなんだろうと。

今のアメリカが散々多様性だの差別を無くそうだの叫んでます。

黒人やアジア系、LGBTQなんかもそうです。

でもあなたたちインディアンのこと忘れてません?て意味を込めたであろう「ウィンド・リバー」があったように、忘れてはいけない人種がいて、過去にそういう残虐性の高い事件を起こしてたんですよと。

いつだって嫌なことは目を背けたいし蓋をしちゃいがちなわたしたち人間ですけど、こういう題材を見つけて作品にした意義は素晴らしいなと見ていて感じましたよ。

 

 

どうも製作段階ではFBI捜査官役をディカプリオにした刑事ドラマ強めの物語にする予定だったそうですけど、ディカプリオ自身が「この映画の核はどこだ?」と問い詰めたとのこと。

要はこの事件を白人の捜査官が捜査して解決ってパターンだと、「んだよ、また白人が窮地を救ってハッピーエンドかよ」と思われるかもしれないと。

そんな映画いっぱいありますもんね(パッと思いついたのはミシシッピ・バーニングかな)。

今という時代に作るなら、あくまで軸はオセージ族であり、部外者が居留地で嗅ぎまわって事件の究明をすることじゃないと。

 

そこでディカプリオは事件に加担したとされるバークハートを演じることで、インディアンの妻と愛を深めつつも犯罪を犯していた愚鈍な人物を中心に物語を作り直したわけです。

 

実際観賞していると、明らかに諸悪の根源がバークハートの叔父にあたるデ・ニーロで、彼の良いように使われてる姿が滑稽に感じるんだけど、そういう事実に目を向けずに妻への愛は本物だってことを体現してるんですよね。

 

実際バークハートの妻モリ―の家族が次々と不可解な死を遂げていく中、モリーに献身的な愛を注ぐディカプリオのシーンはある意味救いでしたし、何より物語の推進力になっていたとも言えます。

 

にも拘らずバークハートよ何やっとんねん!ていう歯痒さも感じた映画でしたw

 

 

しかし冒頭から変だなと感じたのが、富裕層となったインディアンの土地なのに、彼らは白人に理由を言ってお金を引き出してもらうっていうシーン。

何で白人がインディアンの金を管理してるの?と。

 

これ政府がガッツリ絡んでるってのが背景にあったようで。

そもそも居留地に追いやったのは政府。

で、そこでオセージ族はそこの土地を購入し、石油を採掘、鉱業権を一族で共有するようになるんだけど、政府は居留地のある場所を「オクラホマ州」にしたいがために、彼らが購入した土地なのに「民営化してくれませんか」と交渉してきたとのこと。

 

ほら、ちょっとずつ嫌な予感しますよね。

 

その後彼らには割当制度が導入され、鉱業権の使用料の取り分である共益受益権が与えられるわけですが、この権利は「家族や配偶者に譲渡することができる」=別にオセージ族じゃなくても良いという欠陥があったことが判明。

 

一族で財産を保持したかったのに、結婚した白人や家族にも権利が譲渡できるような仕組みにあったと。

 

また政府は、彼らを助けるためと称して後見人制度を導入。

これが劇中で「お金を使いたい」っていうシーンにあたり、金を管理する権限を持つのが白人だったというわけ。

結果、使用料の管理は政府がすることになったことで、様々な収賄や汚職、詐欺が蔓延すると、この制度を通じて彼らの利益をそれに充てるという非常にひどい搾取を政府がしていたことになります。

 

もうさ、金のためなら何でもするってレベルじゃないって話ですよ。

日本もさ、国民にやたら負担させて掠め取ってますけど、弱者から金むしり取っても国が豊かになるわけねえだろって話で。

本作からそういう部分も見えてきちゃうわけですよ。

欲って底が無くて遠慮がなくて、しかも強者が容赦なく遂行するっていうさ、理不尽にもほどがあるっていう話。

 

だからこそスコセッシは「葬ってはいけない、それは今にも通じる話だから」と作ったんでしょうね。

 

でも長すぎるって…。

いい加減感想に移りましょうw

僕の映画における見方の一つとして「長さ」は評価の一つにあたります。

今回206分=3時間26分というとてつもなく長い作品だったので、正直見るのを躊躇したくなりました。

 

ですが、見終わった後は「そこまで長く感じなかった」とか「そこまで疲れなかったなぁ」とか、思いの外集中して見れたんですよね。

環境的な面やコンディション面が良かったことも理由になると思いますが、どう考えても「アイリッシュマン」よりかはマシだったなぁとw

それこそ先日観賞した「ジョン・ウィック:コンセクエンス」とか「ザ・バットマン」のような、3時間の長尺にも拘らず話のテンポも遅ければ蛇足たっぷりの寄り道展開、これらに加え鈍重な映像や音楽といったストレスは、本作ではあまり感じなかったんですよ。

 

それはきっと映画製作の第一線で長きにわたって作り続けてきたスコセッシだからできた腕だと思うんですよ。

正直ね、お話の内容は「モリーの家族がどんどん死んでいく中、ディカプリオが妻に愛情たっぷり注ぐけど、実は叔父に唆されて裏でガッツリ犯罪やってました、そこにFBIが来て全部バレちゃいましたけど、妻への愛は本物です」って非常にコンパクトな話なんです。

 

これを法定速度守って走ってる車の如くゆっくり丁寧な展開とスピードで見せていくので、物語自体が非常にわかりやすいんですよ。

話自体も回想シーンが幾度も入るようなものではなく、概ね直線的に進んでいくし、登場人物の多さ故に多少の交通渋滞はあるけれども、名前が出たらその後その人が出てくるような配慮もあったし、意外と観衆に優しさを向けた作りだったんですよね。

 

でもだ、俺としてはやっぱり殺人事件を題材とした物語だから、黒幕が誰だとかどういう経緯で白人たちが搾取したとかっていう動機だとかをサスペンスフルに見せてほしかったわけですよ。

黒幕の腹の中を覗いた時の衝撃ってすごいじゃないですか。

こんな奴が欲のためにここまで計画的にやってきたんだ、うわー最悪~みたいな。

 

本作にはそういうのがないんですよね。

もちろんさっき書いたような意図があったからこういう内容になったのは重々承知だけど、もっとエンタメ色の強い物語にしてほしかったなぁというのが、自分の好み含めて思っちゃいましたね。

 

またテンポがね~凄く緩やか。

緩急つけたりダイジェスト的な演出で端折っても良い部分てのがいくつも散見されて、これ3時間30分かけて見せる意味って何だろうと。

ディカプリオは幾度か激情になるとはいえ、デニーロ含めどこかニュートラルな芝居なために、ホント物語に波がないんですよね。

 

特に化けの皮を中々剥がさないデニーロが逆に気味が悪くて印象的だったんですけど、ディカプリオに関してはオーバーアクトが板についてるせいか、今回いつものディカプリオじゃないってのは少々インパクトに欠けるかなと。

 

あとはもう、こいつ一体何考えてるんだろうってのが強かったですねw

そもそもディカプリオ演じるバークハートは、最初こそ叔父に「娶れ」と指示されてるけど、モリーに対しては本当に好きになっていったわけです。

にも拘らず叔父の言いなりになって犯罪犯していくんだけど、どこかで「このままいけばモリーを殺さなきゃいけなくなる」って気づくはずなんですよ。

 

モリ―は糖尿病を患ってるので、叔父からもらったインスリンを打って看病するんだけど、それに毒を混ぜて打っていたんですね。

これ、わかってやっているわけですよ。

一体どういう気持ちだったのか、正直伝わらなかったなぁ。

一応自分が飲んでいたウィスキーに毒物を自ら入れて飲むってシーンがあるので、いっそのこと俺も死にたいとか自暴自棄になっていた部分もあるんでしょうけど、どうしたもんか見てるこっちは何の感情も芽生えない。

 

多分ですけど、居留地に少しづつ侵食していく白人を描いた題材同様、ディカプリオの中でも徐々にモリ―への愛に浸食されてる自分がいて、だから最後は叔父の犯罪を証言するっていう覚悟に繋がるのかなぁとか考えたんですけど、にしてもその心変わり、ギアチェンジみたいなものが薄れてたなぁと。

そういう意味では人物描写はそこまで巧かったかなぁと腑に落ちない部分が大きいです。

 

それでもデニーロは気味悪いし、モリー演じるリリーブラッドストーンの佇まいだったりバークハートを見つめる姿だったり、どこかどっしり構えた姿が本作では常にあって、これが凄く良かったんですよね。

実際演じる彼女もネイティブアメリカンの血を引いてる人だそうで、彼女の中に流れるものがしっかり出ていた気にもさせる佇まいだったかなぁと。

 

ジェシー・プレモンスはちょっと弱かったですかね。

正直「パワー・オブ・ザ・ドッグ」の方がインパクトがあったかなぁ。

彼もまたニュートラルなんですよね~。

多分FBI捜査官を前に出したくないっていう意図があったからだとは思うんですが。

 

 

最後に

ラストシーンでは、ラジオドラマの風景を映しながら、この事件のその後を語るシーンになってました。

ちゃっかりジャック・ホワイトが出演しててびっくりしましたけど、もっと驚いたのは最後にスコセッシ監督自身がナレーターとして登場してましたね。

 

しかしあれですよ、元々ネイティブアメリカンを追いやってフロンティア精神とかぬかして土地を分捕ってきただけある彼らですから、1920年代も搾取する感覚は普通だったんですかね~。

そういう負の歴史にちゃんとスポットを当てて伝えていく精神て、日本は薄れてるんで見習ってほしいですね。

 

いやぁ~やっぱ疲れたなw

というわけで以上!あざっしたっ!!

満足度☆☆☆☆☆★★★★★5/10